本を読んだりしてその考えを理解したと思っても、
人に話そうとするとちゃんと説明できなかったりする。
これはよくあることです。
それで、何でこういうことになってしまうか、
僕は分かってしまいました。
これは〈理解〉という言葉を間違えて使っているんです。
理解したという感覚は間違っていない。
間違えているのは理解したと思ってる内容のほうなんです。
本を読んで「ははーなるほどこういうことね」と思って、
それを人に喋る。うまく喋れない。
その「なるほど」と思ったのは内容ではなくて、
その内容が自分の中には無かった内容だったことを理解したんです。
〈内容〉を理解したのではなく、
〈今まで知らなかった内容〉を理解した。
理解すると頭が快感エナジーを放出してスッキリ感が与えられる。
そのスッキリ感が難しい内容を理解していなくても、
何となく理解したつもりにさせられる。
でもそれは勘違いだった。
自分が今まで考えたこともなかったことに触れたり、
身体では分かっていたけど言葉で説明されたりすると、
道が開拓されはじめる。
私の頭の中のツルハシが障害物を砕きはじめる。
だから本を読んだ内容を人に話そうと思っても、
うまく説明できないということになる。
なぜなら僕はその道があることに気付いただけで、
まだ歩いたことがないから。
難しい本を読んで理解できないから、
君はただ言い訳をしているだけだ、
と耳の周りでざわざわしますが。
2013年6月7日金曜日
2013年6月6日木曜日
間口の狭い言葉
話し合いの場とかで議論の最後に
「まあ人それぞれの考え方があるから」
という感じの言い方で締めくくったりすることがあります。
その言い方は優しい感じもして、
オープンでもありそうです。
実際人とまったく同じ考え方をしていることなんて、
変な話ですから。
「ヒマだったからできた」
という言い方もそれに似ていそうです。
「ヒマな人が哲学を作った」とか、
「娯楽はヒマ潰しが目的だ」とかいうのも、
完全にそうじゃないとは言わさないものがある。
もしかしたら〈ヒマ〉は根本的に大事かもしれない。
他にもそういうタイプの言い方を自分でも
日常的にしていることがある。
「間口の広い言い方」とか、
「万人共通な言い方」と言えばいいのか?
他人に否定されにくい言い方がある。
でもそういう「否定されにくい言い方」をすると、
会話が終わってしまったりします。
あ、でも反対に、
袋を閉じるように、
誰かとの会話を切り上げたいときそんな言い方をすることもある。
最近僕は自分がそういう袋を閉じるような言い方をしていると、
言ってすぐ「あ、ちがう」と心で思って、
自分が言ったことを否定しはじめる言葉に切り替わっています。
「いや、人それぞれにちがう考え方なんかない!」とか、
「哲学も火も料理も、ヒマだから起こせたなんてことはない!」とか、
力が入ってしまうこの頃です。
間口の広い言い方よりも狭いほうに、
万人共通さよりも会話している人同士のエゴに、
コミュニケーションの楽しさと奥行きがあるって思えます。
ケンカになるといけないし、
嫌われたくもないから
否定されにくい言い方をしておこう。
とならず、一歩立ち入った会話ができるときに、
議論で何か決またったりしそうです。
酒は割らずに、腹を割る。
強い効き目があって染みるのがいいです。
「でもたまには水割りでしみじみもいいよね」
……というのはまた間口を広げる言い方ですけど。
「まあ人それぞれの考え方があるから」
という感じの言い方で締めくくったりすることがあります。
その言い方は優しい感じもして、
オープンでもありそうです。
実際人とまったく同じ考え方をしていることなんて、
変な話ですから。
「ヒマだったからできた」
という言い方もそれに似ていそうです。
「ヒマな人が哲学を作った」とか、
「娯楽はヒマ潰しが目的だ」とかいうのも、
完全にそうじゃないとは言わさないものがある。
もしかしたら〈ヒマ〉は根本的に大事かもしれない。
他にもそういうタイプの言い方を自分でも
日常的にしていることがある。
「間口の広い言い方」とか、
「万人共通な言い方」と言えばいいのか?
他人に否定されにくい言い方がある。
でもそういう「否定されにくい言い方」をすると、
会話が終わってしまったりします。
あ、でも反対に、
袋を閉じるように、
誰かとの会話を切り上げたいときそんな言い方をすることもある。
最近僕は自分がそういう袋を閉じるような言い方をしていると、
言ってすぐ「あ、ちがう」と心で思って、
自分が言ったことを否定しはじめる言葉に切り替わっています。
「いや、人それぞれにちがう考え方なんかない!」とか、
「哲学も火も料理も、ヒマだから起こせたなんてことはない!」とか、
力が入ってしまうこの頃です。
間口の広い言い方よりも狭いほうに、
万人共通さよりも会話している人同士のエゴに、
コミュニケーションの楽しさと奥行きがあるって思えます。
ケンカになるといけないし、
嫌われたくもないから
否定されにくい言い方をしておこう。
とならず、一歩立ち入った会話ができるときに、
議論で何か決またったりしそうです。
酒は割らずに、腹を割る。
強い効き目があって染みるのがいいです。
「でもたまには水割りでしみじみもいいよね」
……というのはまた間口を広げる言い方ですけど。
2013年6月5日水曜日
カマスカケス
昨日は友達にカマスをもらいました。
で、僕はずっとカマスのことをカケスといって、
「カケスをもらった」と人に喋ってました。
しばらくして、それはカマスだよね?
といわれて間違いに気付きました。
なぜ僕がそんな間違いをおかしていたか、
思い当たる節があります。
昨日、生命保険の話をしていました。
保険屋さんから掛け捨てでもいいから絶対
入ったほうがいいよ!
(僕は入っていない)
と言われてました。
それから、鳥のミヤマカケスがいますけど、
友達の母親にバードウオッチング好きの人がいて、
その人がミヤマカケスが好きだと言ってました。
掛け捨てとミヤマカケス、
この二つが無意識のうちに僕の中で影響して、
よく知らない魚「カマス」が「カケス」になっていた、
と僕は推測します。
まあ、どうでもいいエピソードですけど。
海の近くに引っ越してきて、
水産会社の友達がよく魚をくれるようになりました。
前回まではカツオが続いてました。
一人暮らしでカツオをもらうと、
そのカツオのでかさ、
身の量の多さにどうしたらいいかたじろぎます。
刺身じゃ限界があるので、
とりあえず丸ごと煮たり焼いたり、
蒸したり揚げたり一通りのことはやってみました。
それに比べたらカマスは一人暮らしには安心サイズです。
見た目は秋刀魚みたいで、
顔も身体も細長いです。
これは塩焼きをすすめられました。
今度は、生命保険もカマスっきゃねーか、
という暗示が無意識の中に刻まれそうです。
で、僕はずっとカマスのことをカケスといって、
「カケスをもらった」と人に喋ってました。
しばらくして、それはカマスだよね?
といわれて間違いに気付きました。
なぜ僕がそんな間違いをおかしていたか、
思い当たる節があります。
昨日、生命保険の話をしていました。
保険屋さんから掛け捨てでもいいから絶対
入ったほうがいいよ!
(僕は入っていない)
と言われてました。
それから、鳥のミヤマカケスがいますけど、
友達の母親にバードウオッチング好きの人がいて、
その人がミヤマカケスが好きだと言ってました。
掛け捨てとミヤマカケス、
この二つが無意識のうちに僕の中で影響して、
よく知らない魚「カマス」が「カケス」になっていた、
と僕は推測します。
まあ、どうでもいいエピソードですけど。
海の近くに引っ越してきて、
水産会社の友達がよく魚をくれるようになりました。
前回まではカツオが続いてました。
一人暮らしでカツオをもらうと、
そのカツオのでかさ、
身の量の多さにどうしたらいいかたじろぎます。
刺身じゃ限界があるので、
とりあえず丸ごと煮たり焼いたり、
蒸したり揚げたり一通りのことはやってみました。
それに比べたらカマスは一人暮らしには安心サイズです。
見た目は秋刀魚みたいで、
顔も身体も細長いです。
これは塩焼きをすすめられました。
今度は、生命保険もカマスっきゃねーか、
という暗示が無意識の中に刻まれそうです。
2013年6月4日火曜日
情熱と冷笑
「人間は成長しない、太るだけだ」
「あら、哲学者なのね?」
「おれは太ってないぜ。全身岩のような筋肉だ。
この腕で相手の尻尾をねじ上げる私立探偵だ」
(『ディボース・ショウ』ガス・ペッチより)
「自分は成長できる」と夢を見れるとき、
何か新しいことをやってみようという気持ちになれる。
反対に、そう思うことがなかったら、
できないことを求めてジタバタせずに済む。
たとえば、僕がピザ職人なら、
自分よりピザ作りの上手い人を見て、
「自分はもっとうまくなってやろう」とか、
「この人にはできない技を習得しよう」とか、
何か変化を起こそうという気持ちになる。
それとは反対に、
自分には自分のペースがあって、
求めるものを手に入れに行こうとする前のめりさに
批判的になることもある。
たとえば僕が、恋をしてる人だったら、
恋心から普段以上の自分を演じようとする。
面白いことを言おうとしたり、
気の利いたとこを見せようとしたりする。
そういうのはよく「空回り」と言ったりする。
空回りをしているときは、
自分が能力以上のものを出そうとしている。
「今おれは良い感じだ」と勘違いしてしまう。
いつからおれはこんな細かいとこまで気が回るようになったんだ?
彼女は絶対おれに気があるぞ、などなど。
情熱と冷笑。
どっちかがあるときどっちかが無くなる。
辛い冷麺みたいに両方持ちたいです。
いちばんイヤなのは辛くないキムチみたいに、
両方無いときです。
「あら、哲学者なのね?」
「おれは太ってないぜ。全身岩のような筋肉だ。
この腕で相手の尻尾をねじ上げる私立探偵だ」
(『ディボース・ショウ』ガス・ペッチより)
「自分は成長できる」と夢を見れるとき、
何か新しいことをやってみようという気持ちになれる。
反対に、そう思うことがなかったら、
できないことを求めてジタバタせずに済む。
たとえば、僕がピザ職人なら、
自分よりピザ作りの上手い人を見て、
「自分はもっとうまくなってやろう」とか、
「この人にはできない技を習得しよう」とか、
何か変化を起こそうという気持ちになる。
それとは反対に、
自分には自分のペースがあって、
求めるものを手に入れに行こうとする前のめりさに
批判的になることもある。
たとえば僕が、恋をしてる人だったら、
恋心から普段以上の自分を演じようとする。
面白いことを言おうとしたり、
気の利いたとこを見せようとしたりする。
そういうのはよく「空回り」と言ったりする。
空回りをしているときは、
自分が能力以上のものを出そうとしている。
「今おれは良い感じだ」と勘違いしてしまう。
いつからおれはこんな細かいとこまで気が回るようになったんだ?
彼女は絶対おれに気があるぞ、などなど。
情熱と冷笑。
どっちかがあるときどっちかが無くなる。
辛い冷麺みたいに両方持ちたいです。
いちばんイヤなのは辛くないキムチみたいに、
両方無いときです。
2013年6月3日月曜日
そら豆どん
先週からそら豆を収穫してます。
そら豆は食材としての存在以前に、
まず見た目が良い。
見ていて安心感がある。
角がないから、
知合いになっても裏切られる心配がなさそうです。
見ていても、頭の良いタイプというよりは、
ふくよかな布団にくるまって、
寝て待つタイプです。
小さな豆みたいにせかせかしていない。
大豆が大久保利通なら、
そら豆は西郷隆盛です。
大豆は野心家です。
豆腐になったり納豆になったり、
果ては豆乳になって牛乳の立場を脅かしたりします。
大豆はまず役職について、
そこから権威を振るおうとします。
そんな上昇志向な大豆に対して、
そら豆はいたってマイペースです。
鞘ごと炙られたり、
鞘からほじくり出されて油に放り込まれたり、
薄皮までめくられてすり潰されたりして、
どこまでも受身的な感じがあります。
役職につくこともとんと無関心で、
裸一貫で振る舞っています。
どうしても人に言われて嫌々役職につくことといったら、
そら豆のポタージュぐらいでしょうか。
でも、大豆が豆乳となって、
自分という存在を「乳」というイデアに収斂させていくのに対し、
そら豆はどんなに裏漉しされてスープにされようが、
自分のぼてっとした青々しさを残してしまいます。
オーシャンのご飯は虹色米として、
古代米を含めた七種類のお米を混ぜたものを使ってますけど、
炒り大豆もご飯の中に一緒にいれています。
よく考えたらおかしい話です。
なぜ一人、豆がお米の中にいるのか?
それも大豆が野心家であったことを思い出せば納得がいきます。
大豆は米の中枢に入りこんで主権を狙っているのです。
「いつかご飯と言われるものすべてを大豆に替えてやろう」
大豆にはそういう野望がある。
そら豆はどうか?
そら豆はどこに行っても目立ってしまう。
そら豆ご飯になっても、
かき揚げになっても、
パスタに入っても、
身体が大きいせいで目立ってしまう。
とは言っても、そら豆は何か主張しているわけではないので、
嫌われることはない。
その反対に頼られてしまう。
「お願い申すそら豆どん!」という感じで。
良いふうに転がれば問題ない。
親分に任しとけばあとは何とかしてくれる力がある。
でもあんまり前に出しすぎると、
「何か田舎っぽ〜い」ということになりかねない。
ここぞっていうときに活躍してもらって、
あとは寝てていただく。
そういう感じで今月はそら豆どんにお願いしようと思います。
まず見た目が良い。
見ていて安心感がある。
角がないから、
知合いになっても裏切られる心配がなさそうです。
見ていても、頭の良いタイプというよりは、
ふくよかな布団にくるまって、
寝て待つタイプです。
小さな豆みたいにせかせかしていない。
大豆が大久保利通なら、
そら豆は西郷隆盛です。
大豆は野心家です。
豆腐になったり納豆になったり、
果ては豆乳になって牛乳の立場を脅かしたりします。
大豆はまず役職について、
そこから権威を振るおうとします。
そんな上昇志向な大豆に対して、
そら豆はいたってマイペースです。
鞘ごと炙られたり、
鞘からほじくり出されて油に放り込まれたり、
薄皮までめくられてすり潰されたりして、
どこまでも受身的な感じがあります。
役職につくこともとんと無関心で、
裸一貫で振る舞っています。
どうしても人に言われて嫌々役職につくことといったら、
そら豆のポタージュぐらいでしょうか。
でも、大豆が豆乳となって、
自分という存在を「乳」というイデアに収斂させていくのに対し、
そら豆はどんなに裏漉しされてスープにされようが、
自分のぼてっとした青々しさを残してしまいます。
オーシャンのご飯は虹色米として、
古代米を含めた七種類のお米を混ぜたものを使ってますけど、
炒り大豆もご飯の中に一緒にいれています。
よく考えたらおかしい話です。
なぜ一人、豆がお米の中にいるのか?
それも大豆が野心家であったことを思い出せば納得がいきます。
大豆は米の中枢に入りこんで主権を狙っているのです。
「いつかご飯と言われるものすべてを大豆に替えてやろう」
大豆にはそういう野望がある。
そら豆はどうか?
そら豆はどこに行っても目立ってしまう。
そら豆ご飯になっても、
かき揚げになっても、
パスタに入っても、
身体が大きいせいで目立ってしまう。
とは言っても、そら豆は何か主張しているわけではないので、
嫌われることはない。
その反対に頼られてしまう。
「お願い申すそら豆どん!」という感じで。
良いふうに転がれば問題ない。
親分に任しとけばあとは何とかしてくれる力がある。
でもあんまり前に出しすぎると、
「何か田舎っぽ〜い」ということになりかねない。
ここぞっていうときに活躍してもらって、
あとは寝てていただく。
そういう感じで今月はそら豆どんにお願いしようと思います。
2013年6月2日日曜日
眠気との会話
身体と精神、
二つを分けるのと、
二つは一つであるのとは、
ただの考え方のちがいだけか?
それとも身体か精神のどっちかが先に眠くなるのか。
この「眠さ」は四方八方から戦車のように押し寄せてきて、
睡魔の砲弾を撃ってくる。
まぶたが落ちてきて、
おでこ周辺が重くなる。
口元がゆるんで、
背骨に力が入らなくなって、
首もちゃんと座らなくなってくる。
頭の中はどうか。
ぼーっとしてくる。
もっと何か言えないか?
怒濤のように眠さがやってくるけど、
どこが眠い、ということが言えない。
もうちょっと指摘できるといいんだけど。
「まぶたくん、もうちょっと開いててくれますか」
そうしたらもうちょっとがんばってくれる。
というふうに身体とコミュニケーションがとれると、
楽しそうです。
眠いときに書くと、
何を書いてるのか分からなくなる。
おはようございます、朝です。
そして今日は朝ヨガの日です。
二つを分けるのと、
二つは一つであるのとは、
ただの考え方のちがいだけか?
それとも身体か精神のどっちかが先に眠くなるのか。
この「眠さ」は四方八方から戦車のように押し寄せてきて、
睡魔の砲弾を撃ってくる。
まぶたが落ちてきて、
おでこ周辺が重くなる。
口元がゆるんで、
背骨に力が入らなくなって、
首もちゃんと座らなくなってくる。
頭の中はどうか。
ぼーっとしてくる。
もっと何か言えないか?
怒濤のように眠さがやってくるけど、
どこが眠い、ということが言えない。
もうちょっと指摘できるといいんだけど。
「まぶたくん、もうちょっと開いててくれますか」
そうしたらもうちょっとがんばってくれる。
というふうに身体とコミュニケーションがとれると、
楽しそうです。
眠いときに書くと、
何を書いてるのか分からなくなる。
おはようございます、朝です。
そして今日は朝ヨガの日です。
2013年6月1日土曜日
石窯の火入れ
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