2015年1月27日火曜日

市場の奥へ

オーシャンでは今年から三河湾の魚介を使った料理を出しています。
まだ使う数も少なく、料理数も少なく、
なにより三河湾の魚を理解するために市場通いをしています。
魚屋さんに注文するにしても、
「この季節にはこれが欲しい」
ということも言えないうちはまずは市場で魚をたくさん見ようと。

ぼくが通っているのは〈一色さかな広場〉の中にある魚村です。
間違えてはいけないのがこの〈一色さかな広場〉には
朝市広場というのがあるんですけど、
ここには魚屋さんの他に八百屋やキムチ屋、青果店などが出ています。

「魚買うなら近いんだから一色の市場に行ってくればいいじゃん」
と人から言われてぼくは何度か早起きして出かけて行きました。
〈一色さかな広場〉には本館があり、
この建物の中には魚屋さん以外に煎餅屋、鰻屋、寿司屋があります。
この本館は9時から開きます。
本館の横に朝市広場という倉庫を改造したアーケード街ミニチュア版のような、
屋根のついた通りに店が並んでいるところがあります。
ここは5時から8時までやっています。

そこでぼくはこの〈一色さかな広場〉で魚を買うという行為は、
①この朝市で5時から8時の間に行くか、
②それを過ぎたら本館の魚屋で買うか、
という二択だと思っていました。

鮮魚を並べているのはどっちも三件ほどで、
他は干物や塩辛系の瓶ものなどの加工品です。
「飲食店をやっている人たちはこんな少ないセレクトの中から買ってるのか?」
とぼくはどうもしっくりきませんでした。

約一年間はそう思っていました。
一色のさかな広場に行ったところでそんなに魚は選べないと。
だけど心の隅では
「いや、まだこの市場のシステムには自分の知らない面があるんじゃないか」
という考えも燻り続けていました。

そして今年に入ってはじめて仕入れにさかな広場に行きました。
朝市の魚屋を見ながら歩く。
やっぱり鮮魚がない。
マグロや鮭、ブリなどの大型魚の切身が並んでるぐらいです。
欲しいのは三河湾の鮮魚で、こんな切身なんかじゃありません。

そう思って魚屋のおばさんに
「魚って並んでるだけしかないですか?」と聞くと、
「あっち行ってみん。うちの店も出とるで、
なんか見つかるかしらんが見てこりん」
と南の倉庫群を指差しました。

ただ倉庫が見えるだけで、店らしきものは何も見えません。
しかし車はたくさん並んでいる。
7時が過ぎて空はもう明るい。
言われるがままに歩いて駐車場を抜けると、
そこには想像に描いていたような光景が広がっていました。

二列に抜ける倉庫の通りのそこかしこに人だかりができていて、
道には木箱が並べられている。
ぼくはその中身を確認したいばかりに、足は自動的に早歩きに変わった。
そして木箱の前に立つ。
魚がピチピチとはねていた!
向かいも両隣も、どの店も道に木箱を並べて、
大きな魚から小さな魚まで選びたい放題ある。

魚屋の大将みたいな人は水槽で泳ぐヒラメを網ですくって、
土間に敷いたまな板の上で締めて、
横にいる奥さんみたいな人がビニール袋に入れてお客さんに渡す。

その横の店では氷を敷いた台の上にサバが山積みになっていて、
お客さんが「一匹ください」と言うと、
ねじり鉢巻きをした絵に描いたような魚屋のオヤジが一匹つかむ。
そして大きな出刃包丁でスパンと頭を落としたら、
あっという間に三枚におろして、
温めたバターでも切るように包丁が通るときれいに皮が引かれている。
身だけになったものは紙に包まれてお客さんに渡される。
これは10秒ぐらいの話しで、魔法が使われたように鮮やかに目に焼きついた。

よく人は給料日後に財布にお金がたくさん入ると、
「何かホフホフした気持ち」と言いますけど、それです。
ぼくはビニール袋いっぱいの魚を車に積み、
ホフホフ感で満たされました。

魚村のことを発見するまで約一年間、
誰か人に聞けばもっと早く知れたのにという感じです。
それによくよく見たらでかい看板も道にありました。
何で気付かなかったんだろう? 魚村。

2015年1月20日火曜日

バラバニラアイスクリーム

安城の『仔馬』に久しぶりに行って、
バラアイスクリームというものがあることを始めて知りました。
さらにそのバラアイスクリームを乗せた、バラクリームソーダもあるらしい。
それを聞いてぼくはバラクリームソーダが食べたくなった(飲みたくなった?)。

今、無添加・無着色が浸透しつつある社会で
メロンソーダがいまだに生き残っている理由は一つだけではないでしょうか。
喫茶店に入るとついクリームソーダを頼みたくなってしまうから、という。
クリームソーダが無ければ、
チェリオのカラフルなソーダ群が淘汰されたように、
メロンソーダもとっくにお店から消えているはずです。

〈仔馬〉には秋葉本店と宮前店がある。
オーナーは兄妹である兄が秋葉本店を、宮前店を妹が仕切っているそうです。
秋葉本店はよく日光も入って明るい店なのに対し、
宮前店のほうは外壁がびっしり蔦で覆われていて昼間でも中は薄暗い。
電球のワット数もわざと低めで、電気を消したら真っ暗になるでしょうけど、
電気が付いていても暗いです。
明るい場所から玄関をくぐるとトンネルに入った瞬間のように、
一瞬視界を失います。

ぼくはこの宮前店の不思議な陰性の魅力に惹きつけられて、
こっちに行くことの方が多い。
このお店の特徴は、行く度に店内で変なアイテムを発見することです。
アンティークの小物類や家具、花瓶の花、時計。
こないだ見つけた一番変なものは、陶器のハットです。
白くてつばが広くピンクのリボンが付いた、
淑女が風の吹く丘で手で押さえるあの白いハットです。
その陶器でできた大きな白いハットがトイレの壁にかかっていたのです。
「被ってみたい」
と思いましたけど、壊したらいやなので触りませんでした。

ぼくは〈仔馬〉へ行く事前にバラクリームソーダの話しを聞いていたので、
席に座ってすぐ「クリームソーダと仔馬ランチを」と言って頼んだ。
バラクリームソーダが出てくるのを楽しみに待つ。
そしてクリームソーダが出てきた。
それは普通のクリームソーダだった。
なぜ? ぼくは情報の提供元である一緒に行った相手を問い詰めた。
「なぜバラじゃないのか?」
答えはメニュー表にあった。

・クリームソーダ
・バラクリームソーダ

値段の違いは忘れました。
「いくらでも構わない、金に糸目はつけないぞ、バラを持ってこい」
とは言ってませんけど、それぐらい強い覚悟持っていたのです。
だけどぼくの目の前にやってきたのは普通のクリームソーダでした。
戸惑いの中ランチのハンバーグが出てきて食べ始めたら、
クリームソーダのことは一旦頭から離れました。

食後、バラに対する執着心がまた湧いてきました。
しかし食後にコーヒーも飲んでいるのにクリームソーダはいらないと思っていると、
バラバニラアイスクリームがありました。
メニューをパッと早見しただけではブレてただのバニラアイスに見えるタイトルです。
これを注文して出てきたものは、まぎれもなくバラでした。
真っ白で大きく、バラ以上にバラに見えます。
花びらをすくって食べると、甘くて溶けます。アイスですから。
優雅な気分になりますね。


2015年1月13日火曜日

追求の道

ぼくは書くことは行動的でないと思ってる。
と同時に、書くことで記録を残すことは行動的そのものだ、とも思ってる。
「考えをグダグダ書き付けてる暇があったら、身体を動かせ!」
とブログを書いている時、
いつも心の中の住人から厳しい指摘があります。

「部屋の床を見てみろ。意識的な整頓なんかよりも、
現実的な髪の毛やゴミ屑やホコリを掃除機で吸ったほうが、
どれだけ気持ち的に整頓されるか分かっているんだろ?」

と同時に、

「絶対に床なんて見るもんか。
ディスプレイからだって二時間の間目を離すもんか。
そう決めてるんだ。
何か調べたいことを思いついても検索しないし、
Amazonで買いたいものを思い出しても今は絶対注文するもんか。
全て、このブログを書き終わってからに回すんだ」

と硬い気持ちがぶつかり合います。

それで、結局いつも後者が勝つ。
ぼくが最初から「優先するのはブログだ」という考えを持っているので。
今はブログを週に一回の休日に書くことにしましたけど、
一年前まではこれが毎日だったので、弊害がたくさんありました。

ブログを書くことで、
私生活や仕事にも弊害を及ぼす。
前日の夜大筋を書いて、翌朝出勤前に見直してアップするのが日課でした。
でも内容が嫌で全部消して最初から書いたりなんかしはじめていると、
仕事だって遅刻します。
ぼく個人ではブログもピザ焼きも同レベルの仕事なので、
遅刻という感覚になりません。

だけど、ぼくの経済的原動力はピザ焼きのほうにあり、
ブログは無報酬ですから、
やっぱりピザ焼きにあまり支障もきたせません。
それに対して書くことはぼくの人生の精神的原動力なので、
どっちかを優先するなんてことができません。

何かを追求するためには一本の道を選ばなきゃいけないと、
強迫観念的にぼくは思っています。
料理も、大工も、営業も、主婦も、経理も、
その道を追求してこそプロフェッショナルになれるんだ、
道が分岐していたら右か左どちらかを選ばなければいけないんだ、と。

だからぼくはピザ焼きもブログもどっちも手放せないことに劣等感がある。
エネルギーを注げる量が50%ずつになって、
どっちにおいてもプロフェッションが得られない、というふうに。
そう思ってた。今も思ってる。

だけど最近は、
道が分岐していても50%と50%の自分が分裂して進むなんてことはムリで、
今いるぼくが100%でしかないんだと思ってもいます。
一本の道を進むぼくの中にある100%の割合に、
ピザ焼きと書くことの他にも、色んな好きな思いや変なゴミが混ざっている。

それをどんな配分にして生きていくのが良いのか、悩みます。
最高だと思うのは、
起きている間ぜんぶのことが楽しくなることです。

朝起きる時は朝ごはんが楽しみで起きる。
夜寝る時は次の日一日が楽しみで寝る。
こないだこれをスタッフに言ったら欲張りすぎだと言われました。

2015年1月7日水曜日

幡豆が実家のアートディレクター

「悪を描くことは深くなりやすくて簡単だけど、
明るく楽しいものを描くことは陳腐になりやすくて難しい。
だけど地獄絵図がどれだけすごいものでも、
その人と一緒にはいられない」

アートディレクターのKさんが言いました。
Kさんはぼくがツマミで出したブルスケッタをかじりながら、
ジム・ビームを飲んでいる。
幡豆とアートディレクター、変な組み合わせです。

ぼくが幡豆に引っ越してきてから一年半ぐらい経ち、
これまで変な組み合わせだなと思うようなことは色々ありました。
これはうちにしばらく滞在していたウィーンの女子大学生の話しですけど、
近所の美容院に行って髪の毛を切ってもらったら、
お土産にヤリイカをビニール袋一杯持って帰ってきました。
港町の美容院ですからイカはありえる話しかもしれませんけど、
髪を切ったらイカをもらうなんてやっぱりおかしな組み合わせです。

それから、ぼくが今住んでいる家は元々庭師のものでした。
その老夫婦が亡くなったので息子が貸しに出したところに
ぼくが入ってきたわけなんですけど、
200坪もある庭の隅に競技用のトランポリンが置いてあります。
庭師の家でしたから植木や果樹などが整然と植わっています。
桃、夏みかん、金柑、南天、水仙など他にも名前を知らない植物多々。
その和風庭園の中にトランポリン。

ぼくは競技用のトランポリンというものを間近ではじめて見ましたけど、
けっこう大きいです。
六畳間には入りません。八畳間ならギリギリ入りそうです。
なぜ庭師の家にこんなものがあるんだ?
息子たちの誰かが器械体操でもしていたのか?
ともかく変な組み合わせです、庭師とトランポリン。

Kさんは高校を卒業してから東京に移り住み、二十数年経つそうです。
でたまに実家に帰ってきて、
ヒマで散歩していたらオーシャンを見つけたという次第です。
「ところでアートディレクターってどんな仕事するんですか?」
ぼくは聞いてみました。
「おれは人を演出することを専門にしてる」
とKさんは言ってメイクの写真などを見せてくれました。
これがすごい、
女の人の裸体に翼とか絵が描かれていてそれが立体的でCGのように見える。
おっぱいも丸見えです。
だけどただのヌード写真とは違ってアートっぽい。

冒頭の話しがどんな会話をしていてそうなったか忘れましたけど、
Kさんのアート観になるほどと思ったので
それをブログで記録しとこうと思って書きはじめました。
ほんの数日前に糸井重里が『今日のダーリン』で、
“苦しいことを書くなら、せめて苦しいことを面白く書け”
というようなことを言っていました。
これがKさんの言うこととぼくの頭の中で繋がり、太宰治が出てきました。

地獄絵図を描くような人でも好感を持てるような人で
ピンときた人は太宰治です。
『人間失格』も苦しい人生体験のようなものですけど、面白みがあります。
苦しいのに笑えてしまう、太宰治はそういう作風で神業的です。

明るく楽しいことを表現するのは、
それが軽かったり根拠が無いせいで陳腐になるのか分からないですけど、
確かに深みがなさそうな感じがします。
何かひねりが入っていればいいのかも、失敗談とか。

苦しいことを言う人と一緒にいたくないけど、
それで笑わせてくれるなら苦しいことを聞いてもいい。
明るく楽しい気持ちになりたいけど、
それをそのまま言われても明るく楽しい気持ちになるとはかぎらない。

教訓、
ポジティブな人がポジティブな影響を人に与えないこともある。
ネガティブな人がネガティブな影響を人に与えないこともある。
最後に笑えるか、笑えないか、ということのほうが大事なようです。