2017年4月1日土曜日

増田光個展④

――伝統的な作品が、
自分の作品に影響を与えていることはありますか?


古くからある作品、名品といわれるものがたくさんあって、
日本だと抹茶椀とか。
そういうものを「うつし」というやり方でリメイクすることは、
勉強になるといわれていますね。


――増田さんも「うつし」はよくやるんですか?


え、私ですか?
私は、あんまりやらないですね(笑)。
だけど自分の好きな作品を前においてロクロをひくことはあります。
ぜんぜん違うものになっちゃいますけど。


――多くの人は創作のスタート時には模倣から入ると思うんですけど、
増田さんはオリジナルの要素が強いですよね。
アイデアってどいうときに閃くんですか?


いま浅草で展示をしているんですけど、
そこはビンテージのぬいぐるみを扱うお店なんです。
そこで私も、ぬいぐるみをイメージして焼き物を作ってみました。
ただそれだけですけど、
陶器にすると雰囲気がまた変わりますからね。


だいたい一年に一回くらい「これ!」という
アイデアが出てきたらいい方です。
「コケシの徳利」というのがあって、
それはあるとき徳利を作ってほしいという依頼があったんです。
それでたまたまコケシを見かけたときに
「コケシと徳利って形似てるじゃーん」と閃めいたり。


今回オーシャンさんで出そうと思ってるのは浮輪をした熊で、
これはロクロをひいているときに
「ここ(お腹のあたり)を膨らませて絵を描けば浮輪になるじゃないか!」
と思ったんですよね。


――大きさとかばらばらなんですね。
あえて色んなサイズを作っているんですか?
(まだ絵が描かれてない白い粘土の状態)
















人によって欲しいサイズが違うじゃないですか。
それから、
私あの不細工なファーファを愛してるんですね。
中国製のたぶん不正規のこのぬいぐるみは、
工場ですごいスピードで雑に大量生産されたと思うんです。
同じラインで作っているのに顔も違うし体つきも違う。
私はこの雑さが面白いなと思って。


自分の作品作りでも丁寧に揃えるのではなく、
直感的にパッパッパと描いていくと、
それぞれ微妙に表情が変わってくるんですね。
すると、個性が出てきて、
人によってあれが好きこれが好きというものが出てくるんです。
いろんな人が気に入ってくれる可能性が出てくるので、
私はこれを大事にしています。


――陶芸をやっていてよかったと思うことは何ですか?


いっぱい作っているので、
知らない人のところで、
私の作ったものがあると思うとうれしいですね。


私が作るこの熊たちのことを私は「働く熊」と呼んでいるんです。
誰か買っていってくれた人のために、
甲斐がいしく働いてくれるようにって、送り出しています。
こき使ってほしいと思いますね、誰かのために道具として役立ってほしい。
置物としてでもいいんですけど、
なにかの用途に使ってもらえるといいですね。
お客さんには「働かせてください!」といって渡します。


今回の個展でオーシャンさんでは私の作品で
特別メニューを出してもらえるそうなんですけど、
お皿に盛るときとかあえて熊の絵をよけておくのではなく、
食べたら出てきた、
みたいな雰囲気がいいとシェフの神谷さんに伝えてあります。
それを参考にぜひみなさんにも使ってもらいたい!
と思っております。


――了解しました。
神谷の腕の振るいどころですね。
こんな製作まっ只中にありがとうございました。
















おわり。



2017年3月31日金曜日

増田光個展③

――増田さんはいつから熊をモチーフにして
作品作りをされているんですか?


自分が陶芸家としてやっていくにあたって、
どんなものを作りたいかを考えたときに、
ファーファが目の前にいたんですね。


――ファーファですか?


はい。
ファーファって洗剤のCMに出てくる熊のぬいぐるみなんですけど。
私、その熊のぬいぐるみを大学生のときに雑貨屋で見つけて。
それが中国製の恐らく不正規に作られたパチもので、
鼻が横を向いて、口は曲がっていて、
なんともひどい顔をしたぬいぐるみだったんですね。


私はそのころファーファのぬいぐるみを見つけたら買いたいなー
と思っていたんですけど、
そのときはあまりにもひどかったので「他の探そう」と思って
買わなかったんです。
だけど次の日になってもあの変な顔が気になっちゃって、
けっきょく後日買いに行きました。






















私はその不細工なぬいぐるみをいつも学校に持ち歩いて、
周りの子たちに「ファーファだよ~」なんていって喋りかけていたんですね。
もちろんいま思えば引かれることだと思うんですけど、
大学にはいろんな人がいたからみんな許容力があったので
流してくれていました(笑)。


そのあと常滑にきて修行をはじめるんですけど、
一緒に修行していた子に「ファーファだよ~」とやって見せたら、
その人が目をぎょっとさせたまま顔が固まってしまったんですね。
「あれ、これは、ドン引きされたのか?」
と思って、それからファーファで人に喋りかけるのをやめて、
自分で愛でるだけにしました。


話しが逸れましたけど、
悩んでいたときに目の前にいたファーファを見て、
私はやっぱりこの熊が好きなんだ、と。
こんなに好きだったらこれをモチーフにしてやってみようと思ったんです。


――陶芸家としてスタートをしてからどんな苦労がありましたか?


熊を作りはじめるまではカッコつけたものとかも作っていました。
幾何学模様を描いてみたり。


陶芸家としてやっていくためには、
まずは世の中の人に認知されなければいけないですよね。
その当時いちばんの近道はコンペに出して賞を取ることだったんです。
そういう賞を狙うにはやっぱりテクニカルな部分を見られるんです。


茶碗に彫って立体感を作ったり、
その立体感に合わせて模様を付けるということもしてみました。
だけどそれが、楽しいというよりは苦しくて、
「辛いなー」と思ったんですね。


22歳のときだったんですけど、
――師匠がそのころ60歳で――
自分が60歳になっても仕事が続けられるようにしないとな、
つまらないものを作っててもやめたくなっちゃうだろうな、と。
だったら評価されなくても自分が良いと思うものを作っていこうと思いました。


――陶芸家の仕事の中でやりがいって何ですか?


形を作っているときですね。
コップとかお皿。
たとえば熊の形を作るには紐状にした粘土を使って、
積み上げていきます。
想像通りにいくと「私、神様になったみたい。何でも作れる!」
という気分になって楽しいです(笑)


――自分の中で流行廃りってあるんですか?


熊の仏像ばかりを作っていたときがあるんです。
「何で仏像が熊なんだ?」と問い詰めなければ、
「かわいい!」といって手にとってくれる人もいるんです。
だけどアートの世界に置いてみたとき、
コンセプトとしては認められないですよね。
浅はかだな、と自分で思っちゃったんです。


そう思ったら自分で作っている意味もわからなくなっちゃって、
それで最近は何もしていない熊を作っています。
最近は稚拙な感じにするのがブームでした。
熊の顔のコップとか。
お皿ばっかり作りたくなるときもありますね。
















つづく。

2017年3月30日木曜日

増田光個展②

まさに工事現場まっ只中でした。
大工さんが電動ノコギリやドリルを響かせる横で、
インタビューをするぼく。
質問に答えてくれる増田光さん。


——今回の展示ではどんな作品が並ぶ予定ですか?

春なので、春っぽいもの。オーシャンぽい熊で。
光のあたる窓際とかに置けたらいいな、と。


——え?そんなスペシャルなかんじで作ってもらえるんですか?


いま浮輪をつけた熊を作ってますよ。


——あー…(完成品を見せてもらう)


















オーシャンにもうばっちりですね。
さっそく増田さんのことを教えてもらいたいんですけど、
陶芸家の生活ってどんなかんじなんですか?

わたし朝は弱いんですよ。
朝9時ぐらいから夜は7時ぐらいでやめるのが基本です。
だけど忙しいときはもっとやるし、
遊びに誘われれば遊びに行きますね(笑)。

常滑では制作に没頭して、
あるていどできたら展示に出します。
場所は関東が多いですけど全国行きます。
こないだは六本木、いまは浅草で展示してます。
少し前には沖縄に行きました。

——遡って、
増田さんの学生時代のことを教えてもらっていいですか?

高校までは横浜に住んでいました。
当時通っていた高校が変わっていて、
アメリカナイズされていたというか、
単位制で制服がなかったですね。

自主性を尊重されていました。、
自分で考えて行動することを大事にしていました。
けっこう実験的だったんです。
それがどうも日本人には合わなかったみたいで、
卒業したあと鬱病になっちゃった人がけっこういたんです。

他人は他人であるという考えで、
いざ社会に出てみると上司に楯突く人が続出したんです。
それで職場でうまくやれなくて病気になるという。
当時この学校は人気があって偏差値が高くなったんです。
各学校の頭の中いい子たちが入ってきました。

そういう学校を選んでくるぐらいなので、
思想が強い人も多かったです。
たとえば、自然環境やフェアトレードに興味をもって活動している人とか。
クラス単位での活動はほとんどなくて、
ドラマとかにあるようないじめとかグループではぶかれちゃう、
みたいなこととは無縁な環境でした。

私は面白そうだと思ってそこに決めました。
ふつうの県立は音楽か美術か書道か選択性で、
だけど、私はぜんぶやりたかったんです。

——陶芸家になりたいと思ったのはいつからですか?

美大ではじめて陶芸に触れてからですね。
高校から進学するとき、
私は大学は仕事につくために行く場所だと思い込んでいまして。
だから進学先を決めるときには仕事選びとイコールだったんです。

それで、私はものを作ることが好きだったので、
それなら美術大学かなと。
だけどやりたかった染色を学びたかった学校にいけず、
それならいろんなことに触れてみようと思い、
武蔵野美術大学で陶芸に出会いました。

大学時代に陶芸に触れてしっくりきました。
たとえば絵は感覚的でイメージ的なものですけど、
陶芸は具体的でリアルだと思うんです。
土をこねて、ロクロを引いて、窯で焼く。
こういう作業的なことを積み重ねて作るところが好きなんです。 

大学を卒業するときになって
「陶芸家がアシスタントを募集してるけどどうだ?」
と教授が声をかけてくれまして、
私は「行きます行きます」なんて軽く答えて(笑)。

そうしたらそこが常滑でした、22歳のときです。
街から地方に移ることに周りは心配してましたけど、
私は何を心配されているのか当時はよくわかっていなくて、
実際移り住んでから、
友達が1人もいなくなったので寂しかったです。

——下積み時代は何年続いたんですか?

アシスタントは4年続けました。
師匠の工房に通っていろんな仕事を手伝わせてもらいました。
展示会の準備、作って焼いて出荷すること、
作品の梱包の仕方、ギャラリーの人との付き合い方まで。

陶芸家という職業のほとんどを見せてもらった、というかんじです。
学生時代は1日に茶碗を3個作るのが精一杯!
みたいなところから、
工房では師匠が100個くらいバーっとロクロをひくのを
目の当たりにしたりというふうに。
















つづく。



2017年3月27日月曜日

増田光個展①

4月2日から9日のあいだ、
陶芸家・増田光さんの個展をアイランドサーフで開催します。
増田さんは熊をモチーフにした作風で、
さまざまな表情の、さまざまなスタイルの熊を焼き物で表現しています。


【増田光さんのプロフィールはこちら】
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「1985年横浜生まれ。武蔵野美術大学卒業後、
陶芸家吉川千香子のアシスタントになる。
2012年独立。
現在常滑市にて制作
http://hikari-masuda.com
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【展示会の詳細はこちら】
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展示会場 Island surf/アイランドサーフ
(cafe Ocean のドーム下)
11時~日没(火曜定休)
作家在廊日 2日・9日


西尾市寺部町笠外186-36
tel.0563-62-6123
http://is-ocean .com
---------------------------------------------------------------


期間中は増田さんの作品を使わせていただき、
Cafe Ocean にて特別ランチを1日限定6食ご用意します。
予約はこちらにお電話ください(0563-62-6123)
「やきもの増田光のブログ Far From Here」
でご案内してくれています。


今回、増田光さんの個展を開催するにあたって、
ぼく(牧)がインタビューをさせていただきました。
増田さんは年齢でいうとぼくの一つ年下の陶芸家。
これまでお話ししたことはあまりなかったですけど、
ピザ職人のぼくとは職人つながりなので何か楽しいお話しが
できるんじゃないかとわくわくしながら自宅兼工房にお邪魔しました。


ただいまリフォームまっ最中ということで、
車で向かっている途中に増田さんから
「うちトイレが今あまりよろしくない状況なので
どこかで済ませて来られることをおススメいたします」
と連絡がありました。


インタビュー内容は明日からアップしていきます。

2017年3月25日土曜日

solosolo展示会②

「東京から長野の一軒家に移りまして、
隣接している土蔵を工房に改造しました。
水道をとおして、窓もなかったので穴を開け、
竈と暖炉をすえました。


草木染めの仕事は染料を作るところからはじまります。
僕は料理をやっていたこともあるんですけど、
染料作りは料理に煮ています。
枝や木や葉っぱなどいろんな植物を刻んで煮ます。


どんな植物にも色素は含まれていますけど、
季節によって同じ植物でも色が変化します。
皮や幹といった部位でも異なる。
これらの材料を藁切りをつかって細かく刻んでいくんですね。


僕らが住む山には染料で使う植物がいろんな場所にあります。
よもぎやすすきはそこらへんに生えていますけど、
この季節に山頂にいけばこの木の実がとれるとか、
この時期の山の中腹にはこの植物がとれるとか、
山菜をとりにいくような感覚ですね。
最初は山のどこに何があるのか分かりませんでしたが、
だんだん頭の中にフィールドができあがってきました。


家には畑があるので、
いずれ『染料の庭』ができたらいいなと思います。
いまは食べるものばかりなんですけど、
染料としてはマリーゴールドを育てています。
山や畑だけではなく、
たとえばカレー屋さんから出る大量のたまねぎの皮ももらいます。
これらの材料は煮立てて色を抽出し終わったものは、
畑の堆肥にもなりやすいですね。


僕の仕事の日課は8時に竈に薪をくべて火を起こすところからです。
(春夏秋のあたたかい時期の話しです。
冬はいちばん寒いときだとマイナス20℃にもなるので、
だいぶスローペースになります)


竈の上には水を張った寸胴鍋をかけておきまして、
硬い木や枝などは前日から漬け置きしていることもあります。
葉っぱなら鍋が沸いて30分ほどで色が出ますね。


暖炉にも火を起こして、別に染料を作る鍋を沸かしておきます。
そのあと、その日に染める生地の用意をします。
染めの模様付けのために『しぼり』を入れたり『板絞め』をします。
空いた時間で薪を割ったり、
すぐ裏の田んぼと畑の草取りなど。
10時ごろには火にかけた染料が沸いてできあがっているので、
染めをはじめます。


染物をする中でもっとも特別な時間が、
生地を染料に浸すときです。
白い生地に色を移すとき、必ず『お願いします』といってお祈りをします。
僕らが作ったものをお客さんは特別なものとして手にとってくれます。
僕もそれに応えられるように作るものに力をこめたいと思っています。


染めが終わったら、媒染という作業です。
草木染めにしたものは水溶性なので洗濯をすれば色落ちします。
媒染をすることによって色を定着させることができるのです。
そしてまた染料で染めて、また媒染という作業を少なくとも3回。
生地によって5、7、10回くり返して完成させます。


平日は夕方5時ごろまで。
忙しいときでも7、8時には仕事を終えるようにしています。
自宅と工房、田んぼ、畑が敷地内にありまして、
たまに買い物には行きますけど、
基本的な生活はこの中で完結しているんです。
だからあんまり仕事と休みの境界がないんですよね。


こういう生活が東京にいたときからやりたいと思っていたことなので、
いまとてもしっくりきています。
その分、あんまりずるずる仕事をやっていてもいけないので、
いま言ったように大まかですけど日課を作っています。


土日はイベントで出展に出かけることが多いです。
他には自治会や消防の活動があるので、休みらしい休みはないですね(笑)。


この自然の中で生活をすることの魅力は、
季節をダイレクトに感じられることです。
自然の魅力が作品に宿るように染物をするのは大きなやりがいになってます」


――ありがとうございました。


(スタッフがみんな買った人気の靴下)



2017年3月17日金曜日

solosolo展示会①

草木染めの服や小物を手がける〈solosolo〉による展示会を
来週の20日(月)までオーシャンで開催しています。
開催初日と2日めは田澤さんご夫妻と3人のお子さんで
長野から来てくれました。


僕自身は今回はじめてお目にかかりまして、
草木染めのことをいろいろ教えてくださいました。
知らない方には興味深いと思いましたので、
ご夫妻のお仕事のご紹介をすこしですが書きます。
〈solosolo〉展示会は残すところ3日間になりますので、
まだご覧になられていない方はぜひこの機会にどうぞ!


ご主人の田澤康彦さんにお時間をとってもらい、
僕の「草木染めって何ですか?」という。
漠然とした質問に答えていただきました。
康彦さんは僕が質問をすると一呼吸おいて、
その意味をじっくり頭の中に浸してから取り出すような、
静かなリズムで答えてくれる姿が魅力的な人でした。


以下、僕が質問をしながら康彦さんが答えてくれています。
となりで妻の苺禾さんが子どもたちのお世話をしながら、
具体的なエピソードをまじえて説明もしてもらいました。


「〈solosolo〉をはじめて五年目になります。
震災をきっかけに長野に引っ越しました。
前から畑をやってみたいなと考えてはいたんです。


東京にいたときは実家が自営業だったので仕事を手伝っていました。
妻はデザイン事務所で働いていました。
だから長野に引っ越すときは2人とも仕事をやめてしまったんですよね。
友達づたいで長野に行くことにしましたが、
ともかく暮らしありきで考えていました。
田舎に行ったら仕事はないだろうなと思っていまして、
夫婦一緒にできることはなんだろうと考えたときに、
妻がすでに製作をはじめていた草木染めに取り組んでみようと思いました。


彼女はデザイン事務所でグラフィックデザインの仕事をしていましたが、
自然が目の前にある場所でパソコンの前で仕事をすることには
違和感があったようです。


草木染めは妻が元々妊娠したときに『あのまっ白な産着を染めたい』
という考えからはじまりました。
当時、家の前に桜並木があったんですけど、
その葉っぱや枝といった身近なものを煮出して染料を作り、
染物に没頭していきました。


そのうち僕も手伝うようになりました。
そのときは染物に特別な意識はありませんでした。
服に色を付ける以上の気持ちはなかったです。


だけど長野に越してきて、
あらためて染物をしてみたらぜんぜん感覚が違ったんですね。
まず具体的に工程が変わりました。
これは〈solosolo〉のこだわりでもありますけど熱源には薪を使います。
それまではガスで煮出す作業をしていました。


長野の澄んだ空気の自然光の中で、
染め上がったばかりの風にはためく服は、
まさに自然の力を吸いこんだように思えました。
その美しさにうたれ、
自然の力を衣類におとしこむことが僕の仕事なんだという気がしてきました」


つづく。





2017年3月8日水曜日

野本弥生「料理教室」③

——養生園のキッチンを任せられる前に
先輩に教わったことはどんなことがありましたか?

日数的には二カ月あるかないかですからほんとうに基礎的なことです。
かろうじて酵素玄米の炊き方ですね。
あとは、どこか外で勉強してくる時間もないですから、
本で学んだことを実践することのくり返しです。

「たしか先輩たちはこうやっていたな」と覚えていることを試したり、
「あの袋煮の中身は何だっけ?」と思ったら電話して聞いたり。
先輩は「好きなものでいいのよー」なんていうので、
「それじゃ困ります、ちゃんと教えてください」と聞きだしましたね(笑)。

それよりも大きかったことは、
スタッフやゲストとの会話の中で養生園のありかたを模索できたことです。
養生園が存在する意味を考えれたことですね。
会社員時代には得られなかった価値観がありました。
どっちが大事というよりは、
会社員だったときに見ていた世界はほんの一面だけで、
視野が開けたという感覚でした。

——養生園での仕事はどんなふうにはじまりましたか?

12年前のことになりますけど当時キッチンスタッフは私のほかに、
補助で手伝ってくれる新人の子が一人か二人だけでした。
どの引き出しに何があるのかも分からないところからはじまりました。
朝食を出したら次は夕食、
夕食を出したら次は朝食、
というように生きた心地のしないプレッシャーを感じていました。

養生園は1日2食です。
朝食は10時半からで夕食は5時半からになります。
ホールで時間になったらお客様方は一斉にお召し上がりになっていただきます。
余談ですが、林間学校みたいなんです。
というのも消灯時間があるんです、それも10時なんですね。
夜は早めにお休みくださいというメッセージがあるんです。
ともかく、みなさん1日2食というと不安になり、
お菓子などを持参されますけどほとんど食べずにお持ち帰りになります。

元の料理長だった方は寡黙な方で、
「気持ちを込めた料理を静かにお召し上がりになって、感じてください」
というスタイルだったんですけど、
私はそこまで自信もなく説明しないと不安ということもあり、
料理を出してからもぺらぺらと喋っていました。
元営業ということで経験がいきましたね(笑)。

だけど実際に説明を続けていくと、
いろんな面で理にかなったやり方だということが分かってきました。
まず来園いただく皆様が、
玄米菜食やマクロビオティックといった料理を理解しているかといえば、
そういう方は多くはないんですね。

たとえば「なぜこんなに玄米がもちもちとした食感なのですか?」
なんて質問はよくあります。
その作り方をテーブルごとに一人ひとりご説明するのは時間的にも無理なので、
食事をはじめる前に料理の説明をすることが定着しました。

それから、長野県は山菜も豊富で珍しい食材も使います。
知らずに食べるより、
意識して召し上がっていただくことで
より一層深く味わってもらえると思います。
お料理をおだしして終わりではなく、
会話をすることによって食べていただく方と深い交流ができればうれしい。

——料理の学び方などでアドバイスがあれば伺いたいです。

地場の食材をあつかうお店や、
農家さんに話しを聞くことですね。
たとえば畑で採れたひたし豆をもらったときには
「うちではこんなふうに煮てるよ」なんて教えてもらい、
すぐに試してみます。

——料理の出し方で意識していることがあれば。

養生園は標高の高い場所にあるので夏でも雨が続けばぐっと気温が下がります。
そのため旬の夏野菜が美味しいからといって、
トマトなど生野菜のサラダですと身体も冷えてしまいます。
そういうときは煮物や加熱した料理がおいしく感じます。
あと養生園の食事は一汁三菜と決まっているのですが、
朝は味噌汁、夕飯はスープというように変えることでメリハリをつけています。

——料理教室ではどんなことを伝えたいと思いますか?

旬の野菜の美味しさですね。
2時間の枠ではかぎられますけど、
なぜ旬のものが美味しいのかを伝えたいです。
自然の恵みと季節を感じられる料理を、
一品でも持ち帰ってご家庭で試してもらえたらうれしいですね。

——野本さんの話しを伺っていて思いましたけど、
これまで一見関係ないような経験も含めて、
今にいかしていますよね。
たとえば、最初は不安から料理の説明をはじめたことが、
今ではそれがお客様とつながる大切な時間になっている。
とっかかりが「不安だったから」というのがいいですね。

私は新卒で入った会社でずっと、
自分の基盤を作りたいと思いながら働いていました。
今は料理をやっていますけど、
自分の人生はつながっているんだと考えてみたいですね。

——ありがとうございました。

野本弥生さんの料理監修による
『穂高養生園の週末ごはん』
ぜひ読んでみてください。

料理の盛り付け。

2017年3月7日火曜日

野本弥生「料理教室」②

仕込みのあいまにソファーでくつろいでいた野本さん。
質問者は僕(マキ)がやらせてもらいました。

——野本さんが養生園で働きはじめたきっかけは何ですか?

私はもともと会社員として都内でばりばり働いていました。
新卒で入社した人材派遣会社の営業をやっていたんです。
クレームがつきもので、怒られることが仕事のようなものでしたね。
昼も夜も仕事で、十数年間続けました。

——とても今の弥生さんの姿からは想像ができないです。
ビジネスマインドが強かったということですか?

そうですね。
ちゃんと給料をもらわなければ生きている価値がない、
というぐらいのことは思っていました。
田舎の季節労働者なんてぜったいにやりたくはなかったですね。
だけど、今そういうものになっています(笑)

けっきょく当時の職場で働きつめて身体を壊しました。
精神的にも辛かったですね。
うつっぽくもなっていましたし。
そのときにかかった医者が漢方や森林療法に詳しい方で、
休職をすすめられました。
私は「休んだら会社が困る」と言ったら先生に怒られまして、
しばらく職場を離れてみることなったんです。

そのときに、お客さん側でなんどかお邪魔していた〈穂高養生園〉のことを
思い出してホームページを見てみると、
「体験スタッフ募集」の案内が出ていたのです。
「ちょっと働けばタダで泊まれる」
なんて甘っちょろい想像が膨らみ応募したんですね。

ところがいざ行ってみたら、
ちょうどスタッフの入れ替わりの時期だったらしく、
人手の足りないところを駆けずり回ることになりました。
キッチンの手伝いをしながら温泉をためるタイマーをかけて、
電話がなれば受付に走り、
気がつくと日が暮れていて夜はぐっすり寝てしまう。
いつしか自分が精神的に疲れていたことを忘れるような生活でした。

春の気持ちいい季節だけ一月ほどいて東京に戻ろうと思っていました。
しかし、職場に戻ったところで同じことになるんじゃないかと思い、
いろんな葛藤がありましたが、
上司ともしっかり話しをして退職することにしました。
その後、養生園の調理補助という名目で手伝いはじめることになりました。

ところが一月経つか経たないかのうちに、
立て続けに先輩のキッチンスタッフが辞めていってしまったのです。
そしてある日、経理のご年配のスタッフがやってきて、
「弥生ちゃん料理作って」
と軽いかんじで言われたんですね。

「えええ!そんな突然な話しあり!?」
と私はそんな展開考えてもいなかったので驚いたのですけど、
引き受けました。

——引き受けたんですね(笑)
なんだか決断が豪快というか、自信があったんですか?

はっきりいって自信はなかったです。
ですけど、十数年営業をやってきていましたから、
怖い場所にも飛びこんでいくような勇気が
いつのまにか身についていたのだと思います。

精神的にも、誰かに求められてうれしかったですね。
その期待に応えてみたいという気持ちにもなりました。

それに、やっぱり料理が好きだったんですね。
家で料理もよく作っていましたし、
マクロビオティックの料理教室にも通っていたりしました。
だけどそれがはたして、
お客様にふるまえるようなものかどうかは自信がありませんでした。

つづく。
先日オーシャンにて開催した料理教室の風景。

2017年3月3日金曜日

野本弥生「料理教室」①

ひな祭りに〈穂高養生園〉の野本弥生先生をお招きして、
料理教室を開催しました。
お昼と夕方の二部制でしたがどちらも満席となりました。
告知もほとんどしていなかったのにも関わらず、
早い段階で予約が埋まったので、
玄米菜食やマクロビオティックへの関心をもつ方がいま増えているのかな、
なんて思いました。


今回で野本さんの料理教室は2回目です。
第1回はぼくが調理補助をさせてもらい、
デモンストレーションで大豆のハンバーグなどを焼きました。
今回は遠目から眺めながら写真を撮ったり、
野本さんの空いた時間を狙ってインタビューをさせてもらいましたので、
また次回の投稿でアップしようと思います。


そもそもオーシャンで野本さん料理教室をやってもらえることに至った経緯は、
オーナーの吉崎が〈穂高養生園〉に客側としてお邪魔させてもらったときに、
食堂で野本さんとお話しをしたことがきっかけでした。
「ぜひオーシャンで料理教室をやってください」と。
その後何度か連絡をとりあって冬のあいだに開催していただけることになりました。


〈穂高養生園〉は冬のあいだ休園をするので、
そのあいまの休暇をさいて来てくださいました。
冬の長野といったらウィンタースポーツで賑わうというイメージですけど、
安曇野市は北信など長野のほかの地域に比べて雪が少なく、
でも気温が低い。

そんなわけで冬は観光客が少ないそうです。
しかし春から秋のあいだは清清しい場所で、
まさに養生をするにはうってつけで人気があり、
観光客もどっと増えるとのことです。

前日の仕込みと収穫の風景。
オーシャンのスタッフも勉強をかねてお手伝いさせてもらっています。








2017年2月3日金曜日

梅の木の剪定


梅の木の剪定をしてきました。
オーシャンにたくさんの梅をもたらせてくれる大きな梅の木で、
毎年梅干や梅酒を仕込んでいます。

三年ほど前に剪定をした際に、
たくさん枝を切りすぎせいか変なところを切ったせいか分からないですけど、
弱って死にそうになったことがありました。
それから三年間触らないようにして回復を待っていると、
ついにまた実をたくさん付けて元気になってきました。

しかし今度は実を付けすぎるのも問題で、
密集しすぎると腐ったり実が落ちたり全体的に実が小ぶりになって、
良い梅ができなくなってしまうそうです。
ようはバランスが大事だ、ということのようです。


オーシャンスタッフに剪定の知識を持った人がいなかったので、
講師にオーシャンで養蜂アドバイザーをしてくれる白金さんが来てくれました。
白金さんはこういう果樹の管理にもに詳しくぼくらが困っていると
「剪定の仕方教えようか?」 と声をかけてくれました。


オーシャンメンバーの参加者はぼく(牧)と、
畑チームからはりょうちゃんとえいじくんが集まりました。
梅の木は店から車で北に向かって十分ほどのところにあります。
もともとみかん畑ですけど、
これが数年前にカミキリムシに根を食われてほとんど死んでしまいました。


ここには今生き残ったみかん以外に、
 レモン、金柑、桃、プラム、にわとこ、キウイなど
 他にも小さい苗木がたくさん植わっています。


この日は雨が降っていたので雨具を身に着けて向かいます。
梅の木の前に立ったとき、
はたしてこれが正常なのか異常なのかさっぱり分かりません。
冬の今の時期葉っぱは一枚も付いていませんが、
花の蕾がつきはじめています。
枝はけっこう高くてぼくらの身長の倍ほどになっています。


「どうでしょうか?」とぼくら。
 「枝が伸びすぎちゃってるのと、
小枝も多いからけっこう切っちゃってもいいね。
細い枝を切っていると二度手間になることもあるから、
まずは太い枝を切ってから考えよう」と白金さん。
手袋をつけて小ぶりのノコギリを片手に
 「これ切っていいですか? 」
と一本一本確認しながら切りはじめる。


すぐに「なんか木が硬いね!」とりょうちゃん。
雨の日は木が水分を吸って締まるのか、
木屑が詰まるのか余計に力がいります。
「外へ外へ外へ、外向きに伸ばしていきたいから、
内側に向いてる枝は切っちゃっていいけど、
今度は広がりすぎたら切り戻し剪定といって戻すんだよね。
とりあえず今年は外へ向かっていく形をととのえよう」
とイメージが膨らむアドバイスを白金さんがしてくれます。


太い枝が一本崖から外に伸びているのを見つけました。
「それはもう実を付けても取れないから
根元から切っちゃってもいいね。
あと上に伸びたのも取るのが大変だから切っちゃおうか」

ざくざくと切っていきます。
「枝の先に三本も四本も出てるのは一本残して切っちゃう。
こういうときも内側に伸びていくのを切る」

































「これ見てみて。これは先端になりすぎてるんだわ。
枝がいっぱい出てるでしょ。
ほんとはこんなにならしちゃいけないんだわ」



「今の時点でバランスがだいぶ悪いもんだから、
多めに切ってやらんといかん。
毎回こんなに切るわけじゃないからね。
それに、梅がいちばん失敗が少ない。
切りすぎても次にすぐ生えてくるから。
剪定の仕方も人によってちがう。それぞれ考え方があるから。
上手な人は時間をかけてお椀、というか盃形にしていくんだよね。

「あ、ひこ生えがあるからこれは抜いとく」
見ると地面から若芽が伸びてきている。


太い枝がだいたい切れたら細い枝を落としていく。
枝が平行して伸びているやつは片方が影になるから切る。
進行方向が重なるのも切る。
下向きに伸びてるやつは実が落ちるから切る。
湾曲したり変な形のやつも切る。
枝同士の感覚の狭いやつも切る。
交差してるやつも切る。
もう、切らないところはないんじゃないかというぐらい、切る。

「だけど、本当に切ろうか迷ったときは残す。
収穫のときに見てうまく実ればいいし。
今年いっぺんに修正するというよりは、
年々修正していくっていうかんじだね」

そしてようやく切り終わりました。


りょうちゃんは呆然としていました。
「私は時が経てばうまく実ってくれると思ってらから、衝撃」

「切った枝は水にさしとくと花が咲くよ」
ぽそりと白金さんが言うので、
「もってこう!」
とぼくらはカッコの良さそうな枝を選んで持って帰りました。

たくさんの教えをありがとうございました白金さん。




2017年1月30日月曜日

昨年末に浜松にある〈ヒルマン〉というビストロの
シェフ佐藤さんをオーシャンにお招きしました。
料理のお話しではなくソマチットのお話しです。

人間の血液の中の赤血球や白血球よりも
さらに小さい生命体と言われるのがソマチットです。
ウィキペディアには
「捏造・エセ科学に分類される」と書いてあります。
ソマチットの研究はまだ科学的な証拠がないそうです。

科学的な裏付けはともかく、
自分の血液を顕微鏡でのぞく機会もあまり無いので、
ぼくもこの講習会に参加してみました。

佐藤さんは趣味でソマチットを観察してるそうです。
オーシャンスタッフ数名で〈ヒルマン〉にお邪魔した際
「私たちの血も見てほしいです!」
とお願いしたらこころよく応じてもらえました。

オーシャンではこのソマチット講習会と合わせて
餅つき大会も企画しており(変な組み合わせですけど)、
取引先の方や家族身内などが集まり、
結局30人ほどがこのソマチット観察をしました。

当日、佐藤さんは顕微鏡を持ってきました。
想像よりも大掛かりな設備で、
顕微鏡の横に大画面のディスプレイを設置すると、
オーシャンの店内が瞬く間に実験室に変わりました。

はじめに佐藤さんからソマチットの観察の仕方の話しがありました。
「これから比べてみると分かりますけど、
ぼくのソマチットは量が多くてものすごく元気です。
それから赤血球が小さいのが分かりますが、
これは繊細で女性的な性質をもっていることを現しています」と、
スキンヘッドで格闘家のような体型の佐藤さんは言いました。
さあはじめましょうとなって、一番乗りでぼくから見てもらうことになりました。

血液採取は免許を持たない他人が行うと違法となるため自分で行います。
助手の女性の方に説明を受けて、
マジックペンほどの太さの白い棒を渡されました。
先端を小指の腹に当ててボタンを押すとパチンと音がして
(ゴムで弾かれたような痛み)、
指から血が一滴出る。

その血を薄いアクリル板でサンドイッチにして、
それを顕微鏡でのぞく。
佐藤さんが「みんなに見せてもいいですか?」と聞く。
「いや、中には体重と同じ感覚で見られたくないという人もいるので」
ぜんぜんいいです、とぼく。

ぱっとディスプレイの一面に数珠つなぎの白いリングが映った。
そのリングがかすかに動いている。
その白いリングの周りに白い粒々がたくさんあってこれも動いている。
「その小さいのがソマチットです」と佐藤さん。

白いリングのほうが赤血球で、
たまに白いシミがもぞもぞと動いているのが白血球。

極細の繊維のようなものが固まっているのは砂糖で、
糖分が結晶化したものだという。
この糖の塊がほかの糖をどんどん吸着して大きくなると、
血液が流れなくなって血管が詰まるそうです。

「えー、牧さんでしたっけ?
牧さんの血は元気です、ソマチットもよく動いてますね。
赤血球が小さいですけど、
これは繊細で女性的なところがあるということです。
料理人はだいたい女性的なところがないとやれませんね。
それから牧さんは水分が足りてないというのと運動不足です。
あと免疫力が弱いですね。
ただ、エネルギッシュで馬力があるので
たいていはそれで乗り切ってしまいます」

周りでぼくの血液を見てる人たちが
アアー、とかウンウンとか言っている。
たった一滴の血でこんなに情報量があるのか、
たしかに運動もまるでしていないし、水よりも酒のほうが多いかもしれません。

そのあと遅れてぼくの妻が見てもらった。
「すごいソマチットですね。今回いちばん多いかもしれない」
ぼくの倍以上の数と倍のスピードで動いてる。
「赤血球も張りがあっていいです。
ただ気を付けないといけないのが、
すごいエネルギーの持ち主であるだけに、
これは良い方にも悪い方にも作用する。
悪い方にいけばダークフォースみたいなもので、
周りに攻撃を加えてしまいます」

それは事実です、とぼくは口を滑らせるところだった。
動画をアップしようと思ったらうまくできなかったので写真をあげます。



2017年1月21日土曜日

初日の出営業

しばらくブログを書かずにノートに日記を書いていました。
二カ月近く日記だけにしていましたけど、
人に見られることを意識せずに書いているとダラける、
ということが分かりました。

一昨年の十二月、
オーシャン全体で丸一月休みました。
「飲食店で一カ月も休んで大丈夫か?
経営は成り立つのか?」
なんて、一従業員としてぼくは心配になりました。

だけど経済面に関しては、
むしろ十二月の暇な月にスタッフを配置しているほうが
よほど赤字になるという計算でした。
店を開けるとアルバイトも五〜七人は必要です。

なので、ここは冬のヨーロッパの飲食店を見習って、
冬は一カ月解散してみよう、
と実験的な試みをしてみました。

オーシャンのスタッフの九割が時給なので、
一カ月給料無しということになります。
その年の夏頃にはみんなで話し合って決めていたので、
「そんなのは困る!」という問題もありませんでした。
冬は長い休みを取るかわりに夏はしっかり働こうと決めて、
実際にそうなりました。

ぼくは社員雇用なので給料は夏も冬もだいたい同じです。
(夏はちょっと多く、冬はちょっと少ない)
二週間は特別休暇をもらい、二週間は有給を使いました。

結果、丸一月休んでどうかというと、
良い面もあれば悪い面もありました。
良い面は、思いっきり羽を伸ばせること。
悪い面は、休み前には食材をすべてリセットして
休み明けにまたすべて用意し直さないといけないこと。
それから、畑を一カ月休むとその間にピークを迎える野菜が
土から抜かれずにそのまま土に還っていってしまうこと。
無駄な労力がたくさんあったな、
野菜もこれではいたたまれないし、という気持ちになりました。

今回はこの長期休業はやめて、
各個人で長い休みを取りたい人が交代でとるようにしました。
二週間ほど休みをとって海外に行く人もいれば、
三週間ほど徳島県のカフェに丁稚をしにいった人もいて、
ぼくのように同じことを繰り返してる人もいます。

ピッツェリアでは一昨年も行なった“初日の出営業”を
また今年もやりました。
元旦は朝の三時から窯に火を起こして温めて、
火の付いた薪を外に設置したドラム缶に放り込みました。
外に暖をとるために設置したドラム缶は
前日に中国人がやってるスクラップ場から1500円で買ってきたもので、
内側を触ると手が廃油まみれの真っ黒になる代物です。
ここに燃える薪を放り込むと恐ろしい勢いで燃え始めて、
すぐにぼくの背丈の二倍を超える火柱がゴーーーという音を立てるので、
ぼくは「これは火事になるんじゃないか」と怯みました。
数分で(たぶん中の廃油が燃え尽きて)炎も安定してほっとしました。
そのあと六時から店をオープンしました。

思った以上にお客さんで賑わい、
店で用意してた振る舞い用の甘酒はすぐになくなってしまいました。
日本酒も一升瓶がなくなりました。

燃え盛るドラム缶を用意したものの、
とくに暖房必要ないんじゃないかというぐらい風もない穏やかさで、
雲のない晴空です。
朝陽が昇るときに海面が真っピンクに染まった景色は、
間違いなく今まで見た初日の出の中でも最高のものでした。
(人生で3回目ぐらいの初日の出ですけど)

満杯だった店もこのときはからっぽになりました。
ウッドデッキからこの朝陽が昇る瞬間を、
息を飲むような静けさでみんなが見入っていた光景に、
ぼくはマルゲリータを焼きながら「お店開けてよかったー」
と良い新年を迎えれた気がしました。