2016年11月16日水曜日

メニューのタイトルで悩む

大きな飲食店ではどうか知りませんけど、
小さな飲食店をやっていると料理だけにかぎらず、
商品のポップ作りからストローの発注、ウッドデッキのペンキ塗り、薪割りなど
無限に仕事があります。

その中のメニューのタイトル決めというのでぼくはよく悩みます。
コーヒーひとつとっても
「コーヒー」「ブレンドコーヒー」「ホットコーヒー」
「ドリップコーヒー」「アメリカーノ」「炭焼きコーヒー」
「有機栽培コーヒー」「オリジナルオーガニックブレンド」など選択肢があり、
次は淹れ方で松屋式とかKONO式とか
フレンチプレス式とかサイフォン式とか、
肩書きをつけ始めるとキリがなくなってきます。

で、こだわりをちゃんと説明してアピールしようとすると
オーシャンの場合、
「無農薬栽培の豆(グアテマラ・エチオピア・ケニア・ティモール)
を手焙煎したハンドドリップコーヒー シングル 480円」
というふうに長くなって黒板に収まらなくなりますし、
がんばって書いたところで
「ふつうのホットくれ」と言われます。

ドリンクはまだ短くてすみますけど料理になるとさらに大変です。
「マルゲリータ」とか「クワトロ・フォルマッヂ」なんかはいいです、
すでに一般的にこういうもんだという共通認識があるので。

最近はじめたピザの新メニューで「ポテトチキン」というものがあります。
ポテト。
チキン。
食材の中では、ポテトとチキンには失礼かもしれませんが、単純な部類の食材です。
さらに言えば、単語の響きすら単純です。

その二つの単純な単語をくっつけた「ポテトチキン」なんですけれども、
本当のところもっと複雑な名前にしたいピザです。

トッピングはこうです。
まず伸ばしたピザに生クリームを塗ります。
そしてオーシャン畑で採れたフェンネル、マスタード、
有機ドライトマト、北海道産無農薬栽培のジャガイモと玉ねぎ、
抗生物質不使用・非遺伝子組換え飼料で育てられたつくば鶏、
その上に生モツァレラをトッピングしたピザになります。

だから「ポテトチキン」ではなく、
「オーシャン畑で採れたフェンネル、マスタード、
有機ドライトマト、北海道産無農薬栽培のジャガイモと玉ねぎ、
抗生物質不使用・非遺伝子組換え飼料で育てられたつくば鶏、
生クリームと新鮮モツァレラのピッツァ ¥1350」
と書いてもいいんじゃないかと思ってます。
そして値段も2800円ぐらいにしてもいいんじゃないかと思ってるんですけど、
ぼく自身が単純なのでそのままにしてます。

ちょっと前に行った山梨の〈フォーハーツカフェ〉という店は、
野菜の一品料理が美味しかったんですけど黒板のタイトルはこうでした。

「じゃがいも ¥1000」
「トマト ¥900」
「ブロッコリー ¥1000」
「万願寺とうがらし ¥1200」
「さつまいも ¥1100」

すべての形容詞を排した裸一貫のメニュータイトルです。
これはさすがにもうちょっと何か情報をくれという気持ちになりましたが、
料理が出てきたときの豪快さ、大胆さに打たれました。
「じゃがいも」はちぎりじゃがいもの素揚げが山盛りとなって、
「万願寺とうがらし」は焼いたものがやはり大皿にどっさりと盛られ
踊るかつお節と醤油がまぶしてありいかにも食欲を誘います。
タイトルのシンプルさが物語る、調理のシンプルさです。

こないだ知人に連れられ西麻布の〈HOUSE〉という
ストウブ料理を出す店に行ってきましたがこっちはまるで対極でした。
ここのお店はお通しでストウブで焼いたパンが出てきます。
鍋にパンパンに詰まったパンが「パンだって鍋で焼いちゃうよ」
と言っている気がしてここは単純じゃないぞとまずかまされます。
黒板は〈フォーハーツカフェ〉がA4サイズだったのに対し、
こちらは30インチのテレビ並です。
一つひとつのタイトルがびっしり長々と書き連ねてある。
そのどれもが長くてぼくには覚えられなかったので雰囲気だけでも
書いてみるとこんな感じでした。
「高知県産カツオの炙りと三色レタスにバルサミコソース、素揚げした舞茸、岩塩で焼いた有機栽培のトマト、カリフォルニア産松の実とケーパー ¥1600」
長い名前の通り料理はテクニックが凝らされていて美味しかったです。

長い短いどっちが良いというものでもなく、
どっちも楽しめます。
これはもうタイトルをつける人の趣味ですね。
ぼくは完全に前者のタイプです。

哲学でいうと、デカルトは『方法序説』で
「私は考える、ゆえに私はある」と言いました。
これはつまり「ポテトチキン」ということになります。

そしてサルトルは『存在と無』でこう言いました。
「現象学は一切を意識の内側で考えようとするが、意識へと回収されないものもある。それが『存在』(ある)だ。
フッサールは存在を知覚に基礎づけた。だがそのことは、『不在』(ない)を考えると誤っていることがわかる。何かがそこにないということ自体は確かに存在するからだ。それゆえ、存在を知覚に基礎づけることはできない。存在はそれ自体において『ある』。
意識体系が対策をあらしめているのではない。意識が対象を構成しているのではない。なぜなら、何かが知覚されるためには、それは存在しなければならないからだ。認識は存在を開示することである」

これは
「オーシャン畑で採れたフェンネル、マスタード、有機ドライトマト、北海道産無農薬栽培のジャガイモと玉ねぎ、抗生物質不使用・非遺伝子組換え飼料で育てられたつくば鶏、生クリームと新鮮モツァレラのピッツァ」
と同じ意味です。