2015年5月26日火曜日

石窯に氷を投げ込む

〈石窯ピッツェリア・オーシャン〉は来月で二年目になります。
ぼくは幅広くコース料理を組んだりするほどの実力もないので、
ピザならピザだけのことを掘り下げていくという感じでこれまでやってきました。
しかも創作にはあまり頭が回らず、
メニューのピザが十数種類から増えることもなく、
その細部ばかりに集中していました。

それが成功してるのか失敗してるのかよく分かりませんけど、
褒めてくれたりする人がいるおかげもあって、
気分が良くなって続けることができています。
それからピッツェリアは、
カフェが満席になって入れなかったお客さんを相手に商売する
というところからはじめてますので、
人を呼び込むということに関しては完全に他力本願です。

二年経ってこう思います。
もうちょっとこのブログにピザと向き合う過程を書いといたほうが、
店の歴史を取っておくのにいいんじゃないか、と。
だけど、これは今でも思いますけど、
自分の仕事を書くことが恥ずかしいんですよね。

店がすぐに潰れちゃうかもしれないし、
自分の悩みがレベルの低いことで「これは馬鹿にされるな」とか。
ということで、消えるなら人知れず消えて、
自分の半端な実力を自ら公表してなんになる?という考えになって。

汚点を隠し、
美点を発表。
そういえば国の歴史もこうやって作られるじゃないですか。
それでたまに他国(日本なら韓国とか中国)から汚点を指摘されて、
「そんな指摘はデタラメだ!」と反論する。

歴史はフィクションになっていたほうが愛国精神が人に宿りやすい。
誰も自分の国の汚点は知りたくない、というか、
無かったことにしたい。
従業員も会社の汚点よりは美点を知りたい。
そういう本能が現実から目を逸らし、
同じようにぼくも現実から目を逸らしているのだ、
と考えました。

ぼくはこの本能には従いたくなくて、
もうちょっとこの汚点に取り組まねばと。
このブログのタイトルは『文学の海』で、
文学的になろうと思ったら清濁分けたら偽物になりますからね。

じゃここでまず汚点を一つ書いてみよう。
……と考えてもなかなか出てこない。
やっぱり自分には汚点は無いのかもしれない……。
残念だ。
自分のピザの良いことしか思いつかない。

すいません、ただの思い上がりです。
たしかに、マルゲリータの上で溶けるモツァレラは果てしなくクリーミーで、
マリナーラの上で千切ったオレガノは草原に横たわるような香りで満たしますけど、
理想に近付いたと思ったらまた遠ざかるといった繰り返しです。

長年悩み続けたことがありました。
石窯の温度です。
今の石窯と付き合って二年ですけど、
いまだにこの窯の特性を知り尽くしたとは言い難い。

石窯には温度計が付いているわけではないので、
正確な温度が今どれぐらいなのか、デジタルのようには分かりません。
放射線の温度計でも床面の石の温度は400何度とかは分かりますけど、
薪からのぼる炎もありますし、
ドーム全体のレンガに蓄えられた熱もあるので、
だいたい450から500度の間ぐらいで焼いている感じです。

温度を上げるのは簡単です。
薪を燃やし続ければいいので。
問題は熱くなりすぎたときのことで、
ピザを入れてもすぐに焦げてしまうときです。

90秒というのが基準となる時間で、
これ以上長く焼くと硬くなったり、
これ以下で取り出してしまうと生地が生焼けになってしまう。
窯が熱くなりすぎてしまうという温度は、
ピザを入れた瞬間に底が焦げて、
60秒で表面が焼き上がってしまう状態でたぶん500度に近い。

皿に盛った見た目は良いんですけど、
底の焦げが苦くて、
膨らんだ生地の縁の中がまだ焼けてなくて、おいしくない。

忙しい日だと薪をずっと焚くことになるので、
温度がどんどん上がっていきます。
こないだ忙しかった日にこれはマズいと思い、
とっさに製氷機から氷をすくって窯に投げ込みました。

石の上で氷がスケートをするように滑り回って、
溶けた水分は玉のように転がって広がる間も無く、
シューーーーという音ともに水蒸気をあげる。
そして次にピザを入れて焼いてみると、
きっちり90秒間石の上で焼いても底は焦げることなく温度は下がり、
表面も丁度良くきつね色になりました。

店がオープンして以来の悩みが、
とっさに思いついたこんな簡単な方法で解決か?
悩みが一つ減った!
この後、温度が上がったときにまた氷を投げ入れた。
温度下がる。
丁度よく焼ける。
解決だ!

翌日までぼくは充実感に満たされていました。
この悩みの抜本的解決を報告するべく、
石窯を作ってくれたぼくの先生である長尾さんに電話をしました。

「氷はやめて」

ぼくの嬉々とした報告を聞いたあと長尾さんはずばり言いました。
石が割れるから。
せめて水を含ませたタオルで拭くぐらいならいい。
あるいは、ピザを焼いていない間、
石の表面にアルミ箔かアルミ板をかぶせて温度を上げないようにするか。

そうか。やっぱりそうか。
そんな簡単に悩みは解決しないか。
氷を投げ込んだら窯に悪いかも、
という内なる声もちょっとはありましたけど、
やっぱりダメだったかー。

2015年5月12日火曜日

ハタチからの瞑想

ここ数ヶ月瞑想ができなくなってしまいました。
ぼくの瞑想歴はかれこれ十年近くになると思います。

瞑想にのめり込んだのは二十歳ぐらいのとき、
たしか七田眞の右脳開発の本を読んだことがきっかけでした。
“潜在能力”というテーマにぼくは超敏感だったのです。
で、このとき読んだ本に「イメージ能力を養う」訓練として、
暗闇のなかで目の前に巨大な滝を作り出すというものがありました。

その訓練をぼくは電気を消した真っ暗な風呂に浸かりながら行いました。
背筋を伸ばして、
腹式呼吸をする。
その腹式呼吸は八秒間鼻から空気を吸い込み、
腹に八秒間ためて、
八秒間かけて吐き出すのを1セットとして繰り返す呼吸法でした。

七田眞いわくこの間隔になれたら今度は倍の十六秒に、
次は三十二秒にと、
倍々で増やしていくと超人の境地にいたるというようなことを言っており、
ぼくは十六秒まで試しましたけど苦しくなってやめました。

一ヶ月ほど続けましたが、滝は現れませんでした。
だけどこのときから瞑想を続けて、
ジョーゼフ・キャンベルの『生きるよすがとしての神話』ではチャクラの考えを、
ユングの『黄金の華の秘密』ではチベット密教の呼吸を知り、
瞑想とは呼吸のことだと考えるように至りました。
今では薄暗がりの温かい風呂に浸かりながら深呼吸をするだけになっています。

この十年、風呂で三十分だろうが一時間だろうが、
目をつむって眠ってしまうなんてことはほとんどありませんでした。
いや二、三度は寝たかもしれません。
だけど十年間ほぼ毎日続けてるようなことですから、
それはもう、皆無という感じです。

それがここ数ヶ月は必ず、絶対に、毎日欠かさず寝てしまうようになりました。
二、三回深呼吸すると、
バタンと底が抜ける落とし穴のような睡魔です。
その度に途中でハッと目覚めるんですけど、
やっぱり逆らうことはできずにがくっと意識が落ち、
しかたないから瞑想は諦めてカラダを洗って出るというふうになっています。

これを人に話すと
「仕事で疲れてるんだよ」とか、
「寝不足なんじゃないの?」とか言われますけど、
そんなはずはないと思います。
現場の肉体作業でへとへとになっていたときは過去にいくらでもあるし、
睡眠時間も平均して六時間半から七時間でそこまで大きな変化もありません。

この現象は何を意味しているのだ?
ぼくのカラダは何を訴えているのだ?
そこであらためてぼくは自分に、
なぜ瞑想が必要だったかを考え直してみました。

まず最初に書いた「(瞑想で)潜在能力を引き出したい」ということ。
これはもういつからかどうでもよくなりました。
ありもしない埋蔵金を掘り続けているようで、ただの徒労です。
自分の能力は、自分が好きなもの以外からは引き出せません。

他には
「自分と向き合う」
「リフレッシュする」
「嫌な気分を整理する」
というようなことを瞑想頼りにしていました。

だけど今、三十一歳のぼくには
これらのことも以前と比べるとあまり重要ごとではなくなっています。
よく人は歳を取るにつれて頑固になると言いますよね。
エゴが強くなっていくというのか、
自分の考えを曲げれなくなるというふうに。

こういうネガティブな要素の反面、
相手の顔色を伺わずにズケズケものが言えるようになるという、
図々しさが身につきます。
そして人から批判されても論理的に反論もできるようになる。
生存本能からなのか、
歳を経るにつれて自分を有利に、傷付きにくい思考に変わっていくようです。

そう考えると、
もしかしたら反省しない人間に瞑想はできないのかもしれません。
ぼくは最近反省してないか?と自問すると、
反省よりも、自己正当化のほうが多い気がしてきます。

おれはおれのままでいいのだ。
ゴールデンウイーク中は忙しかったから、
ブログを書けなくてもしょうがないのだ、
とたしかに自己正当化しています。

二〇代は「自分のこんなところが悪かった」と毎夜が反省でしたが、
三〇代は「悪いのはあいつだ」とよく他人のせいにしている。
さらに四〇代を過ぎてくると「悪いのは国だ」と言う人も多くなってくると思う。
人間はだんだんと責任をなすりつけるのが上手くなるようです。

つまり瞑想は内側に向かっていく精神でなければうまくいかない。
内省的であることが瞑想の条件かもしれません。

ぼくはこの文章を結婚した相手に点検してもらおうと読んでもらいました。
ぼくのこの瞑想に対する考察はなかなか鋭いんじゃないかと、
ちょっと得意げな気持ちで。

まず彼女はぼくを睨み、そしてこう言いました。
「これって、結婚が理由で瞑想ができなくなったって遠回しに言ってるよね。
私が原因だってこと?」

突然の指摘にぼくは慌てました。
「ち、ちがう。そんなことはないよ。
きみのせいなんてことは間違いなくない、ほんとに……」
「ふーん」彼女は言いました。
「なんか瞑想の話しも矛盾してるし、意味が通ってない」
「そ、そうかな?」とぼく。

「だってこの話しだと結局瞑想で寝ちゃうってことも、
瞑想がただの深呼吸に変わったから寝ちゃうってことになるんじゃないの?
ていうか、
何で結婚して満たされてるから瞑想が必要無くなったって言えないの?」
「……」
それとこれとは別の話しでもごもご
と意味の分からないことをつぶやきぼくは絶句しました。

結局、瞑想が出来なくなるということは、
不幸なことではなく、
むしろいいことなのです。
もごもご。