2013年6月30日日曜日

スケルトンホオズキトマト

昨日今日とオーシャンでは
イタリアンデイが開催されています。
この二日間のランチメニューは、
石窯ピッツァ&いつもの生パスタとなります。

本日の見所はまたしてもイサムシの作品になっています。
昨日の[月のズッキーニと炎のラディッシュ]が撤去されて、
玄関先にホオズキトマトが供えられた。
あんまり、というかぜんぜん
イタリアンっぽくありません(下の写真)。



このホオズキトマトは普通のトマトとはまた別物で、
酸味と甘味がほとんどフルーツに近いです。
しかしこのホオズキトマト、
ただのホオズキトマトじゃありません。

ホオズキの殻だけを虫が食って、
透けて中が見えるスケルトンホオズキトマトです。
中のトマトだけは触れられずにきれいに残っている。

それを帝王貝細工の上に載せました。
お釈迦様の祭壇みたいで、
ちょっとありがたい雰囲気が出てます。

ではみなさま、よい一日を。
合掌。

2013年6月29日土曜日

月のズッキーニと炎のラディッシュ

一昨日から玄関前にイサムシの作品が展示されています。
初日は青少年のモノのように瑞々しかったですけど、
一日にしておじいさんのモノのように(下の写真)
カピカピになってしまいました。
たぶん今頃は玄関先でミイラのようになっていると思います。

タイトルは
[月のズッキーニと炎のラディッシュ]です。


創作意図をイサムシから伺いました。
「ジョーク・イズ・ノーボーダー!」

2013年6月28日金曜日

イマイチビル

ウワサで聞いた話しですが、
名古屋の今池には[今一ビル]という
テナントビルがあるそうで、
そこに入ってる店舗がどうもイマイチなのだそうです。

ネタ元のCさんは通りを歩いていたときにそのビルを発見した。
一階の美容院の前を通って、
「なんか入りづらいなー」
と思ってたまたまビルの名前が目に飛び込んできたのが、
[イマイチ(今一)ビル]だったそうです。

つまりCさんは、
今一という漢文記号が現実的感覚のイマイチに変換されて、
ダイレクトに脳に伝達された、
ということです。

そこでCさんは他のテナントが無性に気になった。
もちろんイマイチビルですから、
エレベーターなんかあるはずがない。
Cさんは階段を駆け上った(もちろん薄暗い)。

二階には韓国料理屋が入っていた。
店の前を通るとガラスの窓と戸から中がくっきり中が見える。
こっちが恥ずかしくなるぐらいなくっきり感で、
昼時なのに客が入ってるならまだしも入ってないから、
あんまり立ち止まりたくなくてそのまま通り過ぎた。

三階にはショールームがあった。
でも、ガラス戸から奥を覗いても、
何のショールームなのかがぜんぜん分からない。
受付けはこざっぱりしてるしデスクがいくつか置いてある。
でも人気はなくて、何を目的としたショールームかが分からない。

それでビルを降りたそうです。
めちゃくちゃに崩れて廃れているとか、
人を寄せ付けない怪しさを放っているとか、
韓国マフィアの隠れ蓑だとか、
そういうダークネスなところがあるともうちょっと
興味をそそることもあるかもしれない。

ブログでこうやって書いていても、
Cさんの話しが漠然としていたので、
どうイマイチなのか書くのも難しいです。
すごく悪いわけじゃないけど、
良いところも分からない。
イマイチさとは、漠然としてしまうことみたいです。

[今一ビル]という名前はきっと、
「今池で今一番トレンドを突っ走ってます」
とかそういう意味があって付けられのでしょう。
そもそも、そのひねりの段階でイマイチだったようです。

2013年6月27日木曜日

テイケットー

ここのところピザ屋の工事で
毎日色んな業者の方がオーシャンにいます。
昨日はこういう事件がありました。

朝、厨房で仕込みをしていると、
ピザ職人兼ピザ窯職人兼現場監督のアッキーさんが
「◯◯さんが低血糖だもんで、
なんか甘いものもらってもいい?
ちょっとフラフラしちゃってて」
と慌て気味で入ってきました。

それに対して店長のJ子さんは、
「アッキー、かっこいいねー!
さすがイタリア帰りだねーあははは、面白い」
と笑いました。

J子店長は低血糖のことを
テイクアウトだと思って、
それをイタリア風に言い直した言葉だと受け取りました。
テイクアウトを「ブルスケッター」みたいな雰囲気で、
「テイケットー」
というふうに。

J子店長、笑ってる場合じゃありません。

2013年6月26日水曜日

シバナンダ

こないだブログで
「知らなんだ」という言い方について書きました。
どっからやってきた言い方なんだ?と。
それを年配の人に知り合いが多い宮本さんに訪ねてみました。

「昔インドのシバナンダ・アシュラムに行ったことあるけど、
そこと関係あるかもしれない」

2013年6月25日火曜日

ピザ試作②

昨日のピザ試作は、
完璧に準備が整ったとまではいかないですけど、
だいたいの方向が決まるとこまで進みました。

小麦粉のブレンド、
水分量、
発酵時間、
この三つをやり直して再チャレンジしてみます。

中力粉はさっくりとして歯ごたえがいいけど、
伸びが弱いので生地が破れやすくなってしまう。
強力粉は弾力があってもちもち感が出るけど、
それだけだと食感が寂しい気がする。
その両方の良さを活かしつつ、
全粒粉を加えて小麦の旨味をプラスしたい。

なんて、夢が広がってます。
調合率を計算するなんて、
まるで神様の仕事のようじゃないですか。
罰が当たらないか心配になります。

恐れ多き創造の、
罰が下らんよう儀式として、
今日はシーツを洗濯します。

2013年6月24日月曜日

ピザ試作

ピザの試作をしています。
来月の5日にオーシャンのピザショップが、
海の家と共にオープンする予定です。
そのピザ生地をどうするか今考えてます。

オーシャンの粉物は自家製の無農薬小麦と、
わっぱさんから無農薬・減農薬小麦を仕入れています。
今回仕込んだ生地は四種類です。

①中力粉100%
②強力粉100%
③ハーフ&ハーフ
④中力粉90%全粒粉10%

これを今回はビール酵母を使ってみました。
はじめて使う酵母なんですけど、
ナポリピッツァではビール酵母が
伝統的なレシピだというので試してみます。

四種類も生地を食べ比べることなんて
めんどくさくてそうそうできないので、
食べることばっかりじゃなく、
ちゃんとレポートも取ります。

2013年6月23日日曜日

知らなんだとはなんなんだ

「りょうちゃん、胡椒のストックどこ仕舞ったっけー?」
「あれー? わたし知らなんだー」

というやり取りを昨日の朝、
同年代のりょうちゃんとしました。
「知らなんだ」
という言い方を僕が最後に聞いたのは随分昔のことです。
中学生の頃です。

中学の夏休みにイベント設営のアルバイトをしていたとき、
60も後半のいつも鼻毛が出ている早川さんというおじいさんと
一緒にテントを建てたりしていました。
早川さんは社長に「あの資材どこやった?」
みたいなことを聞かれると
「おらぁそんなもん知らなんだ」
といつも言っていました。

他のパターンには、
「わしゃやらなんだ」
とか、
「わしゃできなんだ」
というのもありました。

さらに合わせ技もあります。
「早川さんライター持ってますか?
「あらなんだ」
無いことを「有らない」にして、
語尾に「なんだ」です。

「なんなんだ?」
「そうなんだー」
というのは普通に言う。
でもそれとは別の「〜〜なんだ」とはなんなんだ?

否定文のときの語尾で使える言葉か?
一つ言えることは、
僕がこの「知らなんだ」を聞いたのは、
早川さんとりょうちゃんの二人だけということです。

2013年6月22日土曜日

鼻が詰まっている。
突然寒なったせいで、
鼻がドアを閉めてしまったのかもしれない。
ノックしても反応がないし、
ティッシュでかんで引きずり出そうとしても
びくともしない。
これはもう、鼻の引きこもりです。
立派なニートです。
ノーズランニングで外出もしない。
画鋲を壁に突き刺したようなスタックノーズです。
僕は昔、鈴木あみ(アミーゴ)のポスターを
部屋の壁に貼ってましたけど、
それに負けないぐらい硬い鼻水が
揺るぎなく突き刺さっています。

寒さには気を付けましょう。
あらかじめ、カラダにお知らせを出しとかないと、
僕みたいになるかもしれませんよ。
毎日バタバタしていていると、
回覧板を隣家に持ってくのも忘れます。
たまには隣家の鼻とか腰とか首に世間話がてら
訪ねる時間を持ったほうがいいですね。

2013年6月21日金曜日

新商品の開発


「やられた!」
と、塩製造業に携わる人はこれを見て
悔しがったことと思われます。
僕はジェラシーを感じました。
ぱっと見混乱を引き起こすネーミング。
ずるいです、砂糖さん、いやさとうさん。

僕もこれに触発されて、
オーシャンの新たな商品を考えてみました。
昨冬、みかんをたくさん収穫したとき、
陳皮を作りました。
これをウェブデザインの荒川太一が売り出すことにして、

『あらかわの陳皮』

ちょっとごつめなタイトルで
漢方っぽく効き目がありそうじゃないですか。
そして、最近メニューに出したアオシソソーダーを、
カフェチームの赤石澤よしえが担当することにして、

『あかいしざわが育てたアオシソソーダー』

そういう渓流がありそうな嘘がちょっと混じってますけど、
「あかいしざわでアオシソが育つの!?」
みたいな想像が一人歩きするインパクトがあります。

さらに、オーシャンには畑のランチという
看板メニューがある。
店長の中條が丹誠込めて作っていますが、
これを今は一種類ですけど、
松竹梅のランク付けをして三種類にする。
しかしただ値段で区別するだけでは寂しいから、
店長特撰ということでこういうふうにする。

『畑のランチ
〜ちゅうじょうの松竹梅からお選びください〜』

「あれ、下は? これ五段階!?」
という混乱を狙っています。
とりあえず今日のところは以上です。
しかし、ちくしょう。
『さとうの塩』のシンプルかつテクニカルさ!

2013年6月20日木曜日

スーパーマンズ

着ているものが他人とかぶって
ちょっと恥ずかしくなるときがあります。
同じチェック柄でかつ同色のシャツとか、
色が違ってもフレッドペリーのポロシャツでかぶるとか、
そういうのは照れます。

でも中にはかぶることによる
テンション爆発タイプの服もあります。
朝、イサムシとタツローが店の横の
ハーブガーデンで作業をしているとき、
ふとお互いの姿に気付いた。



「スーパーマン!」
彼らは畑仕事をほっぽり出して、
厨房スタッフに見せるためにやってきました。
なので写真を撮ってあげました。
ちなみに海パンも仲良く同じです。
海パンで畑を泳ぐように、
というか、飛ぶように仕事をしてます。

2013年6月19日水曜日

海の家の工事

昨日はトラックで薪が三トンやってきました。
トラックが去った後、
駐車場には薪の山ができました。
西尾市には「山公園」と呼ばれる公園がありますけど、
その山ぐらいの高さで、
朝から整理して積み重ねる作業がありました。
一般家庭では一年分になるそうです。

コンテナのお店「アイランド・サーフ」のほうでは
大工仕事がはじまりました。
三分の一がキッチンに変わります。
七月から予定していた海の家は、
石窯と合体オープンになります。
どんな空間になるのか、
毎日色んな意見が飛び交って、
誰も正確なことを理解できてないです。
それでも、今よりさらに、
人が来てくれて楽しめる場所になると思います。

「結局、生きることは手放すことだ。
でもいちばん切ないのは、
別れを言えずに終わることだ」

『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』で、
パイが物語る言葉の一つです。
昨日見たので、無理やり引用しました。

新しいことをはじめると、
それまでしていたことを手放さないといけない。
僕も何個か別れを言えなかった思い出があります。
僕の場合はいつもその瞬間、
「別れる」実感が湧かないからです。

2013年6月18日火曜日

焼肉ダウントップの時代

今オーシャン畑ではサンチュがたくさん穫れます。
オーシャンではサラダとして活躍してますけど、
普通サンチュをスーパーで買うときは、
サムギョプサルを目的にする他あんまり手に取らない。

なので僕はくる日もくる日も、
店でサンチュをサラダ皿に並べるときに、
葉っぱの上でカリカリに焼けた豚カルビが点滅する
幻覚を見っぱなしでした。

肉ありきではなく、
サンチュありきです。
豚肉は待ってくれますけど、
サンチュは待ってくれません。

サンチュを生で食べるにはちょっと硬くなってきたかな?
という頃がサムギョプサルにとっては最適期かと思われる。
あんまり柔らかいよりも、
葉っぱに肉厚があって
ちょっと青味がしてきたときのほうが肉に負けない。

サンチュをレタスで代用するには柔らかすぎて、
肉のパンチで野菜の存在感が打ち消されてしまう。
スーパーで売ってるサンチュの収穫も、
もうちょっと遅らせたほうがいいんじゃないかと思う。

オーシャン畑のサンチュは、今がいいです。
サンチュは待ってくれない。
早くしないと硬くなり過ぎてしまう。
そして昨日とうとう実現されました。

豚肉の長さ三〇センチぐらいのスライスを精肉店で買って、
鉄板の上で剪定鋏を使って(キッチン鋏が無かった)
チョキチョキ切りながら巻いて食べる。
ニンニクや味噌、キムチを巻いて食べる。

サンチュは皿に薄く扇型に並べられたものなんかではない。
米二升洗えるザルにサンチュが一抱え突き刺してあった。

今、焼肉業界は飽和状態にあると思う。
「焼肉行こう!」
という人がこれ以上増加するようには思えない。

僕はこれからの時代の焼肉はダウントップ型による決定に
移行していくのではないかと考えています。
「焼肉行こう!」
これはトップダウン型です。
「サンチュ行こう!」
これがダウントップ型です。

「焼肉行こう!」
こういう言い方をする人は自分のことを
ワンマン社長だと思ったほうがいいです。
焼肉以外の選択肢を人に与えない。
平社員なんかはちょっとこの言い方が気持ちいい。
焼肉行こうという言い方には、
「おれ、自己主張してるぜ」
という気分にさせるものがある。

それに対して
「サンチュ行こう!」
はより現場に近いです。
独裁者はどうしても上位概念でものを言う。
〈焼肉〉というカテゴリーを一括りにしてしまうと、
生活に密着しなくなる。

サンチュが今いちばん焼肉で食べるとうまいのに、
「焼肉行こう!」では、
サンチュを食べることを忘れてしまいます。
求めなければサンチュは畑で硬くなっていくばかりです。

「サンチュ行こう!」じゃなくてもいいです。
「新ニンニク行こう!でもいいし、
「豆板醤行こう!」でもいいです。
こういうダウントップで行くことにより、
これまで脇役として無視していた存在が
突然力を持ちはじめる。

立ち上がれ、薬味たちよ!
今日はなんだか社会派な気分です。

2013年6月17日月曜日

そんなバナナ!ケーキ

昨日のファッションショーの途中で出した
バースデーケーキ。



ヴィーガンバナナケーキfromリョッコー。
デザインbyイサムシ。

りょうちゃんは最近髪を切りました。
その後たまたまテレビを見てたらイッコーが出てたそうで、
自分の髪型がイッコーにしか見れなくなったみたいです。
言われてみれば確かに、
センター分けのこめかみから垂れてる辺が前にクルッと
ナイスキューティクルしてます。
だから、仕事のまかないの盛りが少ないときに、
「えー? こんだけぇー!?」
というセリフを言ってもらうことになりました。
問題は、リョッコーのまかないを作るとき、
みんな彼女がどれだけご飯を楽しみにしてるか知ってるので、
どうしても盛りを多くしてしまって、
なかなか言ってもらえないことです。

イサムシの繊細なドラマチックフォレストの上に、
男もやられた思うぐらい盛りのいいリョッコーの
バナナキャッスルが建ちました。
そんなバナナ!ケーキです。

2013年6月16日日曜日

かりゆしウェアでテラベイにおいでる

今日は夕方から
アリシア・ベイ=ローレルのライブがあります。
去年に続き、オーシャンに来てくれるのは二回目です。
海を前でアリシアの歌を聞いていると別世界にワープします。

愛知県は日本のデトロイトと言われてますけど、
オーシャンはベイエリアですからね。
寺部町改め、テラベイエリアです。
アリシア・ベイ=ローレル、かりゆしウェアでテラベイにおいでる。
かりゆしウェア……ではないかもしれませんが。
でも、ブログ上では事実よりも語呂が優先されます。

僕は小学生の頃、
ブログの基本は語呂パスだと、
確か部活で教わりました。

2013年6月15日土曜日

硬いフォカッチャ

石窯ができて、
少しずつピザを焼いてみてます。
実験を重ねています。
というより、ピザが食べたいだけです。

同じ生地を焼いても、
火加減でまったく違うピザになる。
火力の弱い状態で長めに焼くと薄くて硬くなる。
強火で一気に焼くことでプックリ膨らんで、
柔らかさと表面のさっくりした食感になる。

薄くて硬くなったフォカッチャが残ったので、
持ち帰って今日の朝ごはんにしました。
トーストするとその硬さがまた際立ちます。
フォカッチャというよりこれはもう、
ローズマリーを散らした大きなせんべいです。

もう一枚この大きなせんべいがある。
かなり頑丈です。
千切って食べようなんてことはできない。
強靭なゴムのような耐久性と、
ノックをすると人が出てきそうなほど良い音がします。

硬いせんべいをネットで検索したら、
『かた焼き』という伊賀の名物を見つけました。
「日本一硬いせんべい」というのを売りにしている。
それはいいです。
硬いものは歯の健康に良いって言いますからね。

僕が気になったのは、
このかた焼き、
昔は伊賀忍者の非常食にされていたという話しです。
忍者の食べ物にしてはちょっとうるさすぎるんじゃないですか。

お尻のポケットとかに入れてて、
忍び込んだお城で休憩しようとしてバリッとなって見つかるとか、
そういう不注意な忍者のエピソードとかもありそうです。

2013年6月14日金曜日

青いスカーフ

オーシャンでは明日から
リトルイーグルの展示会がはじまります。
去年僕は夏用に青いスカーフを買いました。
ペイズリー柄の柔らかい生地で、
ちょっと冷たい女の人みたいなスカーフです。
巻くとひんやりするけど、
時間が経つうちに暖めてくれる。
そして一つ間違えると、首を絞められる。

2013年6月13日木曜日

三十路ブルー[下]

昨日は三十代が差し迫ってくると、
突然、何とも言えない悲しさに襲われることを書きました。
別に三十代じゃなくても「何とも言えない悲しさ」なんて、
どの年代の人にもたまにはあることでしょう。
でもそれだと僕がブログを書きにくくなるので、
一応それを〈三十代の壁〉ということにしておきました。

〈三十代の壁〉は突然進行方向を塞がれるという形でやってくる。
車で通勤しようといつもの道を走っていたら工事がはじまっていて、
強制的に迂回をしないといけなくなるように。
自分の望みとは関係なく、一言、
NOと手の平を差し出されて、諦めるしかなくなる。

その突然塞がれる感じは、
二十代の自分は可能性に満ちあふれていると見積もり過ぎたせいで、
クロスカウンターを受けるみたいなものなのか?
自分への期待による足払い。

服屋の中路さんの話しを聞いた帰り道、
僕もそれに近いものを感じていたことを思い出しました。
中路さんにとってそれは交通整備で迂回させられたときに、
突然やってきた悲しみでした。
僕にとってそれは夢でした。

その夢は目が覚めた途端、
「自分が望むことは努力すれば手に入れられる、それは嘘だ」
という救いのない夢でした。

でも、ただ悲しいだけなら、
今でもビビットに思い出せるほど胸に刻まれていないと思う。
悲しいことは忘れようという本能で
(僕はすぐに悲しかったことを忘れる)、
さっさと次のことを考えはじめてるんじゃないか。

この悲しさがお茶漬けのように胸に染みるのは、
諸行無常の鐘の音だからか?
この悲しさは、儚さのことなのか?
もしそうなら気分は何とも言えない気分だけど、
悪いばっかでもなさそうです。

〈三十代の壁〉というふうに、壁と言っているけど、
むしろ穴だったかもしれない。
今まで最終処分所のようなゴミ捨て場に捨てていた悲しさの深さを、
覗きにいくような悲しさが、儚さなのか?

突然塞がれた進行方向、
そのトラ柵の奥は、悲しさのゴミ捨て場だった。
という解釈でもいいですよね?

2013年6月12日水曜日

三十路ブルー[上]

よく行く服屋の「two things & think」の店主と、
三十歳直前のブルーになる気持ち
(ブルーって言い方がなんだか古くさい)
について話してました。
店主の中路さんはこんな思い出話をしました。

「三十目前のときだったんだけど、
おれ東京で仕事をしてて、
仕事帰りで電車に乗ろうと思って駅を歩いてたんだ。
確か夜の八時とか九時ぐらいで、駅は混んでいた。
それで、駅をキップ売り場に向かって歩いてるとき、
突然進行方向に警備員が何人か立って、大声で、

『今から工事をはじめます。
汚れてしまうので迂回していってください』

って言ったんだよね。
その間に作業員たちがカラーコーンを並べていって、
通行禁止の札を立てたり、工事の準備がはじまった。
僕の周りにはたくさんの人がいた。
どうするのかと思っているうちに、
突然進行方向を遮断されたことを気にするでもなく、
迂回する道に向かってみんな行き先を変えて歩きはじめた。
もちろん当たり前のことだよね?
何の不思議もない、当然の成り行きだよ。
でも、僕は動けなくなったんだ。
進行方向が変わって僕の後ろにいる人がつっかえてたから、
僕はトラ柵の端にカラダを寄せた。
すぐ横では警備員が大声でくり返しているんだけど、
僕にはそれがすごく変なことだと思えたんだ。
牧君は笑っちゃうかもしれないけど、ほんとに。

『え? 何で進めないの?』

っていうふうに。
段々その、変だな、と思った感じが分かってきた。
僕はいつの間にかすごく悲しくなってたんだ。
何でそんなに悲しかったのかな?
たぶん、突然進行方向を塞がられるなんて、
考えたこともなかったからなのかな。
汚れてもいいからちょっと隅を歩かせてよ、
っていう気持ちにもなったけど、
そんなバカなことも言えないでしょ。
だから、しばらくそこに突っ立ってたんだ」

僕はこんな話しを中路さんから聞いていて、
「ふーん、何でもなさそうな出来事一つだけど、
そこまで気持ちを揺さぶられることもあるんだなー」
と思いながら、
良いジーンズを見つけて買えたので嬉しい気持ちで帰りました。

でも帰り道にふと、
もしかしたら中路さんが言ったことと同じようなことを、
つい最近僕も感じていたかもしれない、と思い直しました。
それは三十代の壁みたいなものなのか。

2013年6月11日火曜日

フルコース料理教室

昨日は安城の料理教室に行ってきました。
年に四、五回行われるだけのクラスなんですけど、
その内容の濃さは超非日常です。

七十も後半のおばあさんが先生で、
動きはもうだいぶヨタヨタしてます。
飾り用のキュウリに包丁で細工を入れるときも、
手に持った包丁が小刻みに震えて、
「ちょっと手ぇ切っちゃうじゃないすかぁ!?」と言いたくなる。
でもそのプルプル揺れる包丁を動かしてると、
みるみるうちに繊細な切れ目が入っていく。

それから眼の光具合と、同時に複数の質問を聴きとる耳がすごい。
先生から離れたところで馬毛の裏漉し器を使っていると、
「木べらもっと立てて!」
と指摘を受けつつ、
先生自身は両脇にいる生徒に指導している。
「小さじ五分の三はこう!」
「鍋、灰汁取って!」

生徒の数はだいたい八から九人ですけど、
のほほんとした空気はない。
ボーっと突っ立ってしまう人は僕ぐらいで、
みんなスピード感がある。

この教室に通っている六〇歳ぐらいの主婦の人は
「もうここに二〇年通ってるわ」とか、
「私はまだ初心者で5年よ」という人もいます。
いちばん長い主婦の人は二五年通っていると言ってました。
はあ? です。
なんだその単位は。

前回は懐石料理でした
昨日は中国料理です。
例外のないのは、
毎回フルコースだということです。

『中国料理(現代香港風)』
[小皿〕
①甘エビの紹興酒漬け
②ピータンとチーズ
③フォアグラの薫製
④鯛のさしみ野菜添え
⑤アボカドのスープ
[大皿]
⑥あわびのオイスターソース煮
⑦干貝柱と白菜のスープ煮
⑧うなぎの桂花ソースかけ
⑨牛肉のチリソースかけ
⑩ザーサイ入りスープご飯
[デザート]
⑪マンゴーのとろとろ風味
⑫牛乳の衣揚げ

今日のブログはこれで終わりです。
というぐらい字数が稼げるメニュー表です。

昨日はクラスが十時からはじまって、
三時近くにやっと食べることができました。
これらの料理の食材は授業がはじまる直前に、
色んな業者から届けられる。

活きのいいアワビが、
その日の朝にさばかれたウナギがやってくる。
ピータンは横浜の中華街からやってきて、
鶏ガラは内臓を取り出すとこからはじまる。

僕は「うなぎの桂花ソースかけ」の担当に立候補しました。
うなぎのぬめりを取って頭を落とし、
身をぶつ切りにして肝の美味くない部分をもぎ取る。
陳皮とか五香粉をからめて片栗粉で揚げる。
桂花陳酒と桂花醤でソースを作る。
桂花はキンモクセイで、甘いソースです。

授業の密度がかなり濃いです。
他の料理も気になるんですけど、
手の空いたときに手伝う感じで、
基本的には一人一品です。
十年二十年通う人がいるわけです。

すごい教室です。

2013年6月10日月曜日

裸な農作業

新しい家に引っ越してきてもうすぐで二ヶ月経ちます。
平屋の家には広い庭がついています。
元々住んでいた人が庭師だったそうで、
工具や農具が何でも揃っている。

庭には夏みかんと、金柑に、桃の木が植わっている。
名前は分からないけど、
甘い匂いの花がたくさん咲く木もある。
家の周りはすべて植木で囲われていて、
これから剪定したりするのが大変そうです。

引っ越してきてから庭は、
たくさん植わっていた木を何本か抜いて、
今は畑もできつつあります。
大豆とニンジン、ルッコラにバジル、
それと三畳間ほどの小さなハウスの中ではトマトが育っている。

はじめは水やりも五分ぐらいですぐ終わっていた仕事も、
今では雑草を抜いたり、
育ってきたルッコラの間引きをしたり、
トマトの株の身長を高くするために横の葉っぱを摘んだりして、
五分じゃ終わらなくなってます。

今日はまたバジルとルッコラの種を蒔きます。
一ヶ月おきに蒔いて、
いつでも収穫できる体制にしようという計画です。

僕にとって農作業は、
文章の比喩としてのほうが身近だったので、
自分が現実に農作業をしていると変な気分になることがあります。

僕はよく下手な比喩で文章を飾ろうとする。
でも、農作業をしている自分は、
脇芽を摘み過ぎたトマトの株のように、
裸な状態です。

現実に裸で農作業をしていたら蚊に食われるし、
近所の人にビックリされるからそれはしません。
裸な状態、
言葉を経由しないアクションとしての農作業です。

2013年6月9日日曜日

田んぼドットコム

昨日僕はカフェで一日仕事でしたけど、
オーシャンの田んぼのほうでは「田植え祭」が行われてました。
百人近くの家族がいらしたそうで、
そんな数の人を田んぼで僕は見たことないです。

スタッフみんなも田植えをする日があります。
店があるので行ける日はばらばらですけど、
一人ずつ交替で行ったりします。
普段店で使っているお米のはじまりの地点に立とうと思って、
苗を植える。

どこがお米のはじまりかと追求しようとすると
(お米にかぎらないですけど)、
人によってはじまりの地点が変わります。

宮本さんは苗代を作って種を蒔く。
その前にどの種を選ぶか、という問題も出てくる。
すると、どこがはじまりになるんだ?
自分の育てたものから収穫した種からはじめるのか?
それとも、どこか他所から良い種を探してくるのか?

僕はずっと天職のことを、
生まれもった才能とか先天的な技術を備えた人が、
その仕事を探し当てて開花させることだと思ってましたけど、
「はじまりを遡りたい」という気持ちになれることも
同じ天職か? と思いました。

僕は米作りに関しては、
田植え以前のことに遡って考えようとすると有耶無耶に、
グレーゾーンの曖昧模糊状態になってくるので、
やっぱりお米のはじまりは田植えにしとこう、となります。

それでも遡ることと楽しむことはまた別物なので、
参加した子供たちは楽しんでやれたそうで良かったです。
帰ってきた宮本さんも調子が良さそうでした。

「今日の田んぼはどっと人が来てくれたなー、
田んぼドットコム!」
と喜んでました。

2013年6月8日土曜日

海側のほっぺた

ティコピア島には
「あんたの海側のほっぺたに、泥がついているよ」
という言い方がある(『文明崩壊〔下〕』より)
それはいったいどっち側だ?

僕が座っているデスクの右のほっぺた側には
世界地図が貼ってある。
しばらくの間ソロモン諸島の辺りを探しましたけど、
ティコピア島は載っていないようです。

島の面積は5k㎡で、
どこからでも1㎞歩けば海に辿り着くそうです。
そんなところに人間が1200人住んでいる。
それがどれぐらいか、あんまり実感が湧かない。

西尾市には「西尾市健康マラソン大会」というイベントがあって、
それには毎年900人前後がエントリーしている。
3㎞と5㎞の部があって、
僕は小学生の頃どっちも走ったことがある。

5㎞の部を走ったときの思い出は、
きつかったことと完走した所要時間だけです。
僕は市内を30分かけて(たまに歩いて)、
ぐるっと回ってゴールしました。

ここまで書くと、
ティコピア風の海側と陸側という言い方が分かります。
つまりティコピア島には、
僕が走った陸側に1200の人が住んでいるということだ。
内側と外側みたいなことでしょう。

島の北端を時計回りで走っているときは、
右のほっぺたが陸側で左が海側になる。
で、南端までくると今度は、
あ、これも一緒だ。

えー、逆時計回りで走ると、
右のほっぺたが海側で左が陸側になる。
内側と外側とはちがうニュアンスもありそうです。

ティコピア島は小学生が30分かけて走れる場所に1200人。
多いと言われれば多い気がします。
今日はオーシャンの田んぼで田植え大会があります。
100人近く集まるそうで、
みんなで同時に苗を植えたら80回で終わってしまうみたいです。

今日は絶好の海側日和りで、
山側日和りにもなりそうです。

2013年6月7日金曜日

私の頭の中のツルハシ

本を読んだりしてその考えを理解したと思っても、
人に話そうとするとちゃんと説明できなかったりする。
これはよくあることです。
それで、何でこういうことになってしまうか、
僕は分かってしまいました。
これは〈理解〉という言葉を間違えて使っているんです。

理解したという感覚は間違っていない。
間違えているのは理解したと思ってる内容のほうなんです。
本を読んで「ははーなるほどこういうことね」と思って、
それを人に喋る。うまく喋れない。

その「なるほど」と思ったのは内容ではなくて、
その内容が自分の中には無かった内容だったことを理解したんです。
〈内容〉を理解したのではなく、
〈今まで知らなかった内容〉を理解した。

理解すると頭が快感エナジーを放出してスッキリ感が与えられる。
そのスッキリ感が難しい内容を理解していなくても、
何となく理解したつもりにさせられる。
でもそれは勘違いだった。

自分が今まで考えたこともなかったことに触れたり、
身体では分かっていたけど言葉で説明されたりすると、
道が開拓されはじめる。
私の頭の中のツルハシが障害物を砕きはじめる。

だから本を読んだ内容を人に話そうと思っても、
うまく説明できないということになる。
なぜなら僕はその道があることに気付いただけで、
まだ歩いたことがないから。

難しい本を読んで理解できないから、
君はただ言い訳をしているだけだ、
と耳の周りでざわざわしますが。

2013年6月6日木曜日

間口の狭い言葉

話し合いの場とかで議論の最後に
「まあ人それぞれの考え方があるから」
という感じの言い方で締めくくったりすることがあります。
その言い方は優しい感じもして、
オープンでもありそうです。
実際人とまったく同じ考え方をしていることなんて、
変な話ですから。

「ヒマだったからできた」
という言い方もそれに似ていそうです。
「ヒマな人が哲学を作った」とか、
「娯楽はヒマ潰しが目的だ」とかいうのも、
完全にそうじゃないとは言わさないものがある。
もしかしたら〈ヒマ〉は根本的に大事かもしれない。

他にもそういうタイプの言い方を自分でも
日常的にしていることがある。
「間口の広い言い方」とか、
「万人共通な言い方」と言えばいいのか?
他人に否定されにくい言い方がある。

でもそういう「否定されにくい言い方」をすると、
会話が終わってしまったりします。
あ、でも反対に、
袋を閉じるように、
誰かとの会話を切り上げたいときそんな言い方をすることもある。

最近僕は自分がそういう袋を閉じるような言い方をしていると、
言ってすぐ「あ、ちがう」と心で思って、
自分が言ったことを否定しはじめる言葉に切り替わっています。
「いや、人それぞれにちがう考え方なんかない!」とか、
「哲学も火も料理も、ヒマだから起こせたなんてことはない!」とか、
力が入ってしまうこの頃です。

間口の広い言い方よりも狭いほうに、
万人共通さよりも会話している人同士のエゴに、
コミュニケーションの楽しさと奥行きがあるって思えます。

ケンカになるといけないし、
嫌われたくもないから
否定されにくい言い方をしておこう。
とならず、一歩立ち入った会話ができるときに、
議論で何か決またったりしそうです。

酒は割らずに、腹を割る。
強い効き目があって染みるのがいいです。
「でもたまには水割りでしみじみもいいよね」
……というのはまた間口を広げる言い方ですけど。

2013年6月5日水曜日

カマスカケス

昨日は友達にカマスをもらいました。
で、僕はずっとカマスのことをカケスといって、
「カケスをもらった」と人に喋ってました。
しばらくして、それはカマスだよね?
といわれて間違いに気付きました。

なぜ僕がそんな間違いをおかしていたか、
思い当たる節があります。
昨日、生命保険の話をしていました。
保険屋さんから掛け捨てでもいいから絶対
入ったほうがいいよ!
(僕は入っていない)
と言われてました。

それから、鳥のミヤマカケスがいますけど、
友達の母親にバードウオッチング好きの人がいて、
その人がミヤマカケスが好きだと言ってました。

掛け捨てとミヤマカケス、
この二つが無意識のうちに僕の中で影響して、
よく知らない魚「カマス」が「カケス」になっていた、
と僕は推測します。
まあ、どうでもいいエピソードですけど。

海の近くに引っ越してきて、
水産会社の友達がよく魚をくれるようになりました。
前回まではカツオが続いてました。
一人暮らしでカツオをもらうと、
そのカツオのでかさ、
身の量の多さにどうしたらいいかたじろぎます。
刺身じゃ限界があるので、
とりあえず丸ごと煮たり焼いたり、
蒸したり揚げたり一通りのことはやってみました。

それに比べたらカマスは一人暮らしには安心サイズです。
見た目は秋刀魚みたいで、
顔も身体も細長いです。
これは塩焼きをすすめられました。

今度は、生命保険もカマスっきゃねーか、
という暗示が無意識の中に刻まれそうです。

2013年6月4日火曜日

情熱と冷笑

「人間は成長しない、太るだけだ」
「あら、哲学者なのね?」
「おれは太ってないぜ。全身岩のような筋肉だ。
この腕で相手の尻尾をねじ上げる私立探偵だ」
(『ディボース・ショウ』ガス・ペッチより)

「自分は成長できる」と夢を見れるとき、
何か新しいことをやってみようという気持ちになれる。
反対に、そう思うことがなかったら、
できないことを求めてジタバタせずに済む。

たとえば、僕がピザ職人なら、
自分よりピザ作りの上手い人を見て、
「自分はもっとうまくなってやろう」とか、
「この人にはできない技を習得しよう」とか、
何か変化を起こそうという気持ちになる。

それとは反対に、
自分には自分のペースがあって、
求めるものを手に入れに行こうとする前のめりさに
批判的になることもある。

たとえば僕が、恋をしてる人だったら、
恋心から普段以上の自分を演じようとする。
面白いことを言おうとしたり、
気の利いたとこを見せようとしたりする。
そういうのはよく「空回り」と言ったりする。

空回りをしているときは、
自分が能力以上のものを出そうとしている。
「今おれは良い感じだ」と勘違いしてしまう。
いつからおれはこんな細かいとこまで気が回るようになったんだ?
彼女は絶対おれに気があるぞ、などなど。

情熱と冷笑。
どっちかがあるときどっちかが無くなる。
辛い冷麺みたいに両方持ちたいです。
いちばんイヤなのは辛くないキムチみたいに、
両方無いときです。

2013年6月3日月曜日

そら豆どん

先週からそら豆を収穫してます。
そら豆は食材としての存在以前に、
まず見た目が良い。
見ていて安心感がある。
角がないから、
知合いになっても裏切られる心配がなさそうです。

見ていても、頭の良いタイプというよりは、
ふくよかな布団にくるまって、
寝て待つタイプです。
小さな豆みたいにせかせかしていない。
大豆が大久保利通なら、
そら豆は西郷隆盛です。

大豆は野心家です。
豆腐になったり納豆になったり、
果ては豆乳になって牛乳の立場を脅かしたりします。
大豆はまず役職について、
そこから権威を振るおうとします。

そんな上昇志向な大豆に対して、
そら豆はいたってマイペースです。
鞘ごと炙られたり、
鞘からほじくり出されて油に放り込まれたり、
薄皮までめくられてすり潰されたりして、
どこまでも受身的な感じがあります。

役職につくこともとんと無関心で、
裸一貫で振る舞っています。
どうしても人に言われて嫌々役職につくことといったら、
そら豆のポタージュぐらいでしょうか。

でも、大豆が豆乳となって、
自分という存在を「乳」というイデアに収斂させていくのに対し、
そら豆はどんなに裏漉しされてスープにされようが、
自分のぼてっとした青々しさを残してしまいます。

オーシャンのご飯は虹色米として、
古代米を含めた七種類のお米を混ぜたものを使ってますけど、
炒り大豆もご飯の中に一緒にいれています。
よく考えたらおかしい話です。
なぜ一人、豆がお米の中にいるのか?

それも大豆が野心家であったことを思い出せば納得がいきます。
大豆は米の中枢に入りこんで主権を狙っているのです。
「いつかご飯と言われるものすべてを大豆に替えてやろう」
大豆にはそういう野望がある。

そら豆はどうか?
そら豆はどこに行っても目立ってしまう。
そら豆ご飯になっても、
かき揚げになっても、
パスタに入っても、
身体が大きいせいで目立ってしまう。

とは言っても、そら豆は何か主張しているわけではないので、
嫌われることはない。
その反対に頼られてしまう。
「お願い申すそら豆どん!」という感じで。

良いふうに転がれば問題ない。
親分に任しとけばあとは何とかしてくれる力がある。
でもあんまり前に出しすぎると、
「何か田舎っぽ〜い」ということになりかねない。

ここぞっていうときに活躍してもらって、
あとは寝てていただく。
そういう感じで今月はそら豆どんにお願いしようと思います。

2013年6月2日日曜日

眠気との会話

身体と精神、
二つを分けるのと、
二つは一つであるのとは、
ただの考え方のちがいだけか?
それとも身体か精神のどっちかが先に眠くなるのか。

この「眠さ」は四方八方から戦車のように押し寄せてきて、
睡魔の砲弾を撃ってくる。
まぶたが落ちてきて、
おでこ周辺が重くなる。
口元がゆるんで、
背骨に力が入らなくなって、
首もちゃんと座らなくなってくる。

頭の中はどうか。
ぼーっとしてくる。
もっと何か言えないか?
怒濤のように眠さがやってくるけど、
どこが眠い、ということが言えない。
もうちょっと指摘できるといいんだけど。
「まぶたくん、もうちょっと開いててくれますか」
そうしたらもうちょっとがんばってくれる。
というふうに身体とコミュニケーションがとれると、
楽しそうです。

眠いときに書くと、
何を書いてるのか分からなくなる。
おはようございます、朝です。
そして今日は朝ヨガの日です。

2013年6月1日土曜日

石窯の火入れ

昨日は石窯に火入れの儀式が行われました。
白いタイルを基調にして青と緑というのが、
涼しい感じがします。
内に燃え上がる炎との対照がいいです。
それに、三角のタイルでできた顔が
ちょっとピエロっぽいです。
火入れの儀式が終わって、
今度はピザを焼く儀式があります。
やっぱり儀式が大事です。
六月は、
みんなで窯をしみじみ鑑賞しながら、
どんなことができるのか話し合う月になりそうです。