2014年12月31日水曜日

年の瀬まで拷問

今年最後のブログです。
一年を振り返り、
今年自分は何を達成することができたのか思い返すと、
色々思い浮かびます。
うそです、あまり思い浮かびません。

ぼくは達成ということに近いことを何かしたか?
ピザ生地がなんとか狙い通り発酵するようになってきたこと。
三河湾の魚を四季を通して手に取り、
なんとか三枚下ろしと五枚下ろしができるようになったこと。
ブログを週一の更新に変えてなんとかそれを続けたこと。
「なんとか」ばかりで、達成というほど声を大にしても言えません。

その中でも今年最も大きな達成感があったことは、
『24』を一年通して全シリーズ見終わったことです。
つい昨日全話見終わりました。
ジャック・バウアーの拷問につぐ拷問。
ドラマの主役が最も得意とすることが「拷問」なんていいのか?
と思いながら見ていました。

しかも今年は『24』だけじゃりません。
『ブレイキング・バッド』も全話見てしまいました。これも傑作でした。
去年は『フリンジ』で、
一昨年は『ロスト』です。

こんなドラマばかり見ているヒマがあったら仕事や勉強など、
もっと役に立つことをしろと自分を叱りたくなります。
だけどしょうがありません、もう見てしまいましたから。

『24』で一番好きだったのはシリーズ7です。
今までの相棒トニー・アルメイダとの対決、
それからビル・ブキャナンの勇姿、
エンターテイメント満載の回でした。

来年はもうちょっと人に自慢げに言えることを達成したいです。
こんな大晦日にもなって『24』のことしか思いつかないなんて、
タイトルは『文学の海』なのに、
ぜんぜん文学っぽくない締めくくりになってしまいました。

明日はピッツェリアで元旦初日の出営業をします。
朝の四時頃から火を起こして、六時よりオープンします。
ということは三時頃に起きて準備をしないといけません。
ジャック・バウアーに拷問を受けているような気分です。

ともかく今年も一年、ブログを読んでくれた方々ありがとうございます。
オーシャンに来てくれた方々ありがとうございます。
閲覧者あってのぼくで、
来店してくれる方あってのぼくです。

来年もみなさまにとって拷問とかされることも無く、
良い年でありますように。

2014年12月23日火曜日

軍手のサンタ

「これは絶対お父さんにもお母さんにも言っちゃいけないことだけど、
サンタクロースってほんとは誰か知ってる?」
この時期になると、日本の子供同士の間でよくある会話です。
ぼくも子供の頃近所の友達にひそひそ声で言われたことを覚えています。

だけどうちはアメリカ式だったので、
兄弟も親も祖父母も関係なく、
みんながみんなにプレゼントをする習慣でした。
さすがに日本側の祖父母はその交換会には参加しませんでしたけど、
毎年アメリカの祖父母から綺麗に包装されたたくさんのプレゼントが
冷蔵庫ぐらいもある大きな箱に入れられて船便で届きました。
こんなに興奮することはありませんでした。

クリスマスの一、二週間前にそのプレゼントが届くと、
家の中で飾り付けをしたモミの木の下に積み上げます。
祖父母からは一人につき何個も包みがあったりするので、
ぼくは兄妹が四人ですけどそれに両親も含めると膨大な包みの量になります。
だいたい三十から四十個(もっとのときもあった)のキラキラした
プレゼントが山積みになった。

小さいものはボールペンから大きいものは自転車まで、
とにかくあらゆるものが包装されている。
で、子供から親へとなると子供はお金が無いですから、
何をプレゼントしたらいいのか悩む。
そこで母親はぼくらに“感謝の手紙”を書きなさい、と言う。

両親だけなら二枚手紙を書くだけでいいので簡単です。
だけどアメリカからプレゼントを送ってくれる人たちは、
祖父母、曾祖母、叔父、叔母、義理の祖母がいます。
つまりクリスマスには 七枚の手紙(祖父母は合わせて一枚)を書かないといけない。
しかも英語で。

ぼくはこの手紙を書くという仕事がとても嫌で、
中学生になった頃母親に
「アメリカからプレゼントを送ってくれるを断ってほしい」
とお願いしました。だけど断られた。

アメリカからはクリスマスだけではなく、
ぼくの誕生日にまでプレゼントを送ってくれる。
プラス五枚の手紙。
ああ……。なんて素晴らしい親類なんだ!

クリスマスプレゼントという喜びには、
感謝の手紙という憂鬱な仕事がくっついてやってくる。
そういうわけで近所の友達が「サンタクロースってほんとは……」
というような日本式クリスマスの話しをぼくにしてきたとき、
「君たちはもらうだけなの!?そんなのズルい!」
と日本式クリスマスを恨んだ。

せっかくもうすぐクリスマスなので、
クリスマスの話しを書こうと思いました。
こないだ保育士の先生がこんな話しをしてくれました。

「うちの幼稚園では毎年園児のパパにサンタさん役をお願いしてるの。
それで、つい先週お菓子の袋詰めを持ってサンタさんが来てくれたんだけど、
子供たちはサンタさんに名前を呼ばれてプレゼントをもらうのね。
もちろん子供たちは大喜び。

困るのがサンタさん役のパパの子供が呼ばれたとき。
贔屓にしちゃ困るのに、他の子と比べて握手がすっごく長いの。
抱きついちゃうんじゃないかってぐらい。
これは気付かれる、
って思うんだけど相手は子供だからただ喜んでるだけなんだけどね。

だけど一人ませた女の子がいて、すごく頭が良い子なの。
その子の番になってプレゼントを受け取るんだけど、
何度もサンタさんのほう険しい顔でを振り返るの。
あんまり真剣な顔してるから『Kちゃんどうしたの?』聞くと、
『あの人ほんとのサンタさんじゃない』って言うの。
『手袋に黄色い線があった。袖の中に見えたもん。
ほんとのサンタさんは仕事の手袋はつけない』
私は『サンタさんはオシャレなのよ』ってごまかしたけど、
絶対信じてないだろうなー」

みなさん、
サンタさん役を頼まれるようなことがあったら細部には気を付けて、
軍手はやめておきましょう。

2014年12月17日水曜日

ラストオブ夢希望

こないだの日曜日久しぶりに〈夢希望〉に行ってきました。
安城市にあるライブハウスで、
三河に住む三十代前後の人たちにとって
“〈夢希望〉は思い出を秘めた場所”
という人は多いと思います。

ぼく自身は十七から十九歳までの間がそうでした。
その頃はパラパラとhip-hopのイベントが多かったです。
週に一度通って朝方まで遊んでいることも少なくなかった。
それが二十歳を過ぎて行く機会が少なくなり、
十年経ちこないだ店を畳むことを聞きました。

『フュージョン・スラング』というのが今回のイベント名です。
〈夢希望〉の最後を記念する意味も含まれた企画です。
出演者は三十から四十近くでぼくと同年代です。
きっと彼らも自分たちの思い出があるんだろうな、と見ていました。

音楽の演者は八組で、
それぞれが別ジャンルの音楽をやっている人たちです。
たとえば一般的な音楽イベントは同じジャンルの人たちが集まります。
ベリーダンスの発表会ではベリーダンスのみ、
hip-hopのイベントに来る客はみんなアメ車で来る、
というように同じ趣味を持った人たちが集まるのがいわゆる普通のイベントです。
しかし、今回のイベントは「焦点化しない」ということを目指している。
ハードコア、スカ、エレクトロニック、ベリーダンス、テクノという感じで、
多ジャンルの演者が集まりました。

今は音楽のジャンルが細かく枝分かれして、
聞く人は自分の個性にあった音楽を選びます。
もちろん、聞く人にとって選択肢は多いほうが良いに決まっています。
だけど選択肢が多いために自分好みのジャンルに束縛されて、
未知な領域に手が出しづらくなることもあります。
「下手に手を出して失敗してもイヤだし」
というような気持ちはぼく自身思ったりしますので。

『フュージョン・スラング』の企画者は熱い言葉でぼくにこう言いました。
選択肢が多い半面“驚きの出会い”が無くなっている気がする、
ごちゃ混ぜなところに力が生まれる、と。

イベントの最後の演者は『Self Control System』というテクノ音楽の二人組でした。
DJセットのようなデジタル機器をたくさん前に並べて、
二人がそこで機会をいじって音楽を流すという手法です。


ぼくはこういうエレクトロニックな音楽が好きですけど、
生で見ていつも思うのは、
「この人たち何してんだ?」
ということです。

だってギターやピアノやトロンボーンのように
動きを通して楽器を奏でるわけではないし、
ボーカルのように何か喋ったり歌ったりするわけでもない。
していることといったら機械の台の前に立って、
“つまみ”をひねったりたまにイヤホンを耳にあてたりしてるだけです。

これが一人ならまだいいです、そんなに疑問に思ったりしない。
その人が何をしていようがその人がいなきゃ音楽が鳴らないのだから。
だけど『Self Control System』は二人組です。
二人で何をしてるんだ?

ぼくは音楽に耳を傾けながらじっと彼らのことを観察する。
つまみをひねる。たまにイヤホンを耳にあてる。何かスイッチを押す。
足を踏んでリズムを取る。ちょっとだけギターを鳴らす。
スイッチを押す。またイヤホンを耳にあてる。

こういうことが続き今度は、
一人がもう一人の陣地に入っていて機械をひねったりしはじめた。
そしてその陣地の一人のほうは何も気にせず、
パソコンを見てリズムを取っている。

「おい、お前の仕事はどうした?取られているぞ!?」
とぼくは思った。

横槍を入れた一人はちょっとつまみをひねったりして、
パソコンを見て何かを確認したら、
再び自分の陣地に戻って行って、また足を踏んでリズムを取り始める。
陣地に入られた男のほうは何事もなかったかのように仕事に戻る。
つまり、自分でつまみをひねったりしはじめる。

バンドは楽器があって分かりやすい。
ギターが超絶だ、ドラムがパワフルだ、とか見た目でなんとなく感じる。
だけどこのデジタルな人たちは
機械を使ってつまみをひねったりするだけで聴衆者を盛り上げてしまうんです。

ついさっきまでハードコアの人たちが汗を振りまきながら、
拳を突き出して叫びまくっていました。
それがこの後、つまみをひねるだけで会場を盛り上げてしまう人たちもいるんです。

ぼくは隣にいたバンドマンの友達に聞きました。
「彼らは機械をいじってるけど、何してるの?」
「まあ、知らなくていいんじゃない?」
と笑われました。

まあいいです、知らなくても。
どうせ教わっても分からないから。
つまみで十分です。

2014年12月9日火曜日

高級カッターシャツとあられ茶

最近“演出”ということをよく考えます。
店の演出とか、自分の演出、料理の演出などなど。

ぼくはこれまで演出を軽く見てきた、
というかあんまり考えてきませんでした。
飾りは後回しで、本質を磨くこと本物であること、
飾り気を剥いでごくシンプルであることが大事だと、
こう思ってきました。

だけどこの“飾らない”というのも演出の一つになりますよね。
「ありのまま」を演出するということ。
じゃあどこからどこまでが飾りで、
どこからどこまでが素のままなのか?
そもそも境界線があるのか?
と分からなくなってきます。

こういう場面を想像してください。
あなたは名古屋の長者町繊維街を歩いている。
老舗の呉服屋もあれば潰れかけの問屋や洋服屋もある。
その中の一件が店先にカゴを出して、
プラスチック袋に入ったワイシャツを置いていた。
ダンボールの切端しに漫画で使うトゲトゲの吹き出しがあり、
マジックでこう書いてある。

「高級カッターシャツ 540円!」

高級ワイシャツにしては破格の値段です。
だけどまず気付くのはプラスチック袋が若干黄ばんでいることです。
シャツ自体も日焼けてしまってるんじゃないか? と。
このワイシャツが高級物であるのか偽物であるのかどうかよりも、
「高級」と「路上のカゴ」という組み合わせに違和感があります。
それなら「B級商品 大特価540円!」のほうが情景に合います。

ともかく、場面が進む。
繊維街を通り抜けると、歴史を感じさせる塀に囲まれた建物が現れる。
丸の内の老舗料亭〈河文〉だ。
門をくぐると打ち水をした石畳に紅葉が落ちている。
玄関の前に着くと音もなく引き戸がスーと開く。
自動ドアではない。
中で待っていた着物のお姉さんが開けてくれたのだ。
あなたは頭上を見上げて監視カメラがどこにあったのか探す。
だけどそんなものは見つからない。
着物のきれいなお姉さんは妖力かなにかを持っているのか?
そのままお香が漂う廊下を抜け、
個室へ案内されるときにはぼんやりした気分になってくる。

座椅子に座り少し経つとお茶が出てきた。
その着物のお姉さんは「あられ茶でございます」と言う。
見ると湯呑みの中には白湯にあられが浮かんでいる。
一口すすると湯気に移ったあられのなんとも言えない香ばしさ。
「なんと雅なお茶なんだろう」
と風流な気持ちになる。なりますよね?

このあられ茶がもし、
家の汚い台所でおばあちゃんが沸かしたヤカンから出てきたらどうですか?
「ちょっとおばあちゃん変なクズ入ってる!」
「何言ってんの、良いとこのあられ茶なんだから」
「え? そんなのうそだ、残ったお菓子のクズだ!」
とあなたはきっと怒るでしょう。

飾りに重心がかかりすぎると“チャラい”と言われるけど、
本物だからといって雰囲気が伴っていないと
その価値も分かってもらえず損をします。
調和が大切なんですかね。

今このブログを書きながら
温かい緑茶でみかんを食べています。
この組み合わせは冬のイメージで調和していると思う。
(よくありますよねコタツのある部屋の場面なんかで)
だけどお腹的にはこれは水分と水分で合いません。

2014年12月2日火曜日

大人だって歯医者ではみんな子供でありたい

こないだから〈黒部こども歯科〉に通っています。
ぼくの子供ではありません、
ぼくには子供はいませんから。
ぼく自身が通っています。

西幡豆の国道沿いに〈黒部こども歯科〉があります。
子供専門の歯医者があるなんて今まで知りませんでした。
はじめてこの看板を見たときは
もし自分に子供がいたらこういう歯医者に行かせたいなと思いました。
だって、この屋号からすでに滲み出ていませんか?
絶対にここの先生たちは優しくて、和やかな雰囲気だということが。
屋号だけでこんなに安心感を与えれることってありますか。

たとえば西三河の人たちは
〈デンソー〉とか〈アイシン〉という名前に安心感を抱きます。
初めての海外旅行者はきっと
〈マクドナルド〉とか〈スターバックス〉に安心感を抱きそうですよね。

しかしこれらの屋号イメージは企業の仕事から連想するもので、
“安定した品質”みたいなものが元になっています。
だけど〈黒部こども歯科〉に関しては内情も評判も一切知らない。
にも関わらず、言葉の組み合わせだけで安心感がある。
こどもと歯科。
「この歯医者のスタッフに悪人はいない!」と直感的に思えてしまう。
この少子化社会であえて大人マーケットを切り捨てているのです。
これに思想を感じずにいられますでしょうか。

とは言っても、まさかそこに自分が通うことになるとは。
だってぼくは30歳の大人ですからね、ルール違反じゃないか。
だけど違うんです。
ぼくはスタッフの宮本さんに紹介されたのです。
宮本さんは36歳でぼくよりも大人ですけど、こども歯科に通っています。

「大人でも時間によっては大丈夫なんだよ。
あそこの歯医者はほっとする。
和気あいあいとしててね、ぜんぜん圧迫感がないんだ」

休日の朝、ぼくはすぐに予約の電話をかけました。
「9時40分に来れますか?」
「えーと、今9時25分ですから……す、すぐですね」
「そうですね、もうすぐですけど。大丈夫ですか?」
受付の女性はなかなか押しが強そうです。
うむを言わさない態度にぼくは子供になった気分です。

つい先日は虫歯を削ってそこに詰め物を埋めて治療しました。
ドリルのかん高い音も響かず時間はものの数分です。
先生と助手は作業をしながら、のほほんと世間話をしてます。
「はい終わりましたよー。虫歯二本治しましたからね」
と言われたとき、ぼくはまだこれから治療がはじまるんだ、
と身構えていたところです。

それでぼくは思ったんですけど、
大人だって歯医者ではみんな子供でありたいんじゃないか。
大人だったら痛いことにガマンできるなんていうのが、
理不尽に思えてきました。

接骨院だってぼくは一回も行ったことありませんけど、
絶対に行きたくないです。
ポキッバキッメキッとか大人だったらそんなに骨を鳴らしても良いなんて、
受け入れがたいです。
だけどこども接骨院だったら行ってもいいかなと思えます。
こども耳鼻咽喉科とか、こども内科とか、
とりあえず医者の人たちは患者を皆こどもだと見なすのはどうでしょうか。