2013年8月1日木曜日

橋本治の文章

昨日は人間関係の実験のことを書いて、
実践方法だけを言って、
「何で自分はそんなことを考えはじめんだ?」
ということを書くのを忘れた。

僕が最近、
本とか活字でいちばん楽しめる文章は、
「何でこんなことを書きはじめたのか?」
という部分です。

何でそう思いはじめたのかというと、
橋本治の本を三冊立て続けに読んでそう思いました。
『橋本治という行き方』
『橋本治という考え方』
『橋本治という立ち止まり方』
の三冊です。

これら以外に読んだ橋本治の本は『恋する春画』
だけですけど、
この画集は絵しか見ていないので
読んだうちに入らないから、
ちゃんと読んだのは上の三冊だけです。

『橋本治という立ち止まり方』の中に
「老いと老人」の章にこう書いてある。

〈私が入院してまず思ったのは、
《そうか、老人大国っていうのはこういうことか》
を実感させるような、老人の多さです。
私自身もう六十を過ぎているので不思議はないのですが、
私の入った病室はジーさんだらけで、
まず《お前もジーさんの一人であることを自覚するように》
と言われてるようなものです。
検査やらなんやらで病院内を移動すると、
もう圧倒的なジーさんバーさんです。
患者本人もジーさんバーさんなら、
それに付き添う人間達もジーさんバーさんで、
《このジーさんバーさんがこの先もっと増えるんだ》と思うと、
絶句してしまいます〉

この文章にはまず
「老人大国なのを実感できていなかった自分」がいる。
それが入院したことをきっかけに、
「自分自身の認識を改めさせられる」という反省がある。
面白くないのはここで終わる文章だと思う。

「僕はこう思いました」と言われても、
読むほうは「ふーん、あなたはそうなんですね」
で終わってしまう。
けどそこから「もう一歩踏み込む」と小説になると思うし、
「後ろに一歩後ずさる」とエッセーになると思う。

橋本治のこの文章はエッセーで、
後ろに一歩退いて、
ジーさんバーさんの世界に目が開かれる。

読者である僕はその文書を読んで、
「現実の日本はジーさんバーさんだらけなのか」
という漠然とした情報は入ってくるんですけど、
それはあんまり重要じゃない。
もしその情報が知りたければ統計局のHPがある。

それよりも、
橋本治が入院して、
ジーさんバーさんに埋め尽くされたせいで、
「“ジーさん”がどういうものか確かめておこう」と、
この文章を書きはじめた動機に触れられる。

動機というか、
胸がドキドキするような動悸が言葉にされている感じで、
それが橋本治の文章の面白さでした。

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