優れた小説の条件には、
冒頭に読書を引き込む力があるといいます。
東海林さだおの小説ではないけどエッセイは、
いつも食べ物のことを書いているだけなのに、
掴まれるものがある。
『キャベツの丸かじり』の中の「素朴な芋たち」の冒頭はこうです。
“テーブルの上に、三種類の芋が並んで湯気を上げている。
じゃが芋、さつま芋、里芋である。
いずれも茹でたりふかしたりしただけで、味はついていない。
これからこの連中を食べようというのである”
普通のことを書いているのに、
何か普通じゃない。
芋をふかすのも、テーブルの上で食べるのも普通です。
普通ではないのは、人はわざわざ三種類も芋を並べない。
そこにこれからどんな話しが進むのか興味を引く。
突然、東海林さだおは先生になって、
芋たちは生徒になる。
“三人を並べてみると、
エコヒイキは教育者としていけないことだと思いつつも、
じゃが芋君はかわいい。
さつま芋君は、容姿のびのびと育って健康的でいい。
里芋君は何だか憎たらしい。
性格的にも暗いところがあり、少しいじけているような気もする”
たとえば、
釣人が釣りのことを知らない人に趣味をペラペラ語っても
聞いてるほうはつまらなかったりする。
だけど東海林さだおはまず舞台を学校に置く。
自分は先生という役者を演じて、
じゃが芋君、さつま芋君、里芋君を舞台に上げる。
よっぽど芋好きでもなければ、
人の芋の好みなんて知ったこっちゃありません(ですよね?)。
だけど舞台が置かれると、
なんだか突然ストーリーが身近に感じられるようになる。
さだお先生はこの後芋君たちに進路指導をはじめる。
すると自分も何か芋君たちに言いたいことが出てきたり、
「山芋君や菊芋君が仲間外れにされているのはなぜですか!?」
と芋側のPTA的な立場として意見の一つも言いたくなってくる。
その時点でさだお先生の術中にはまっているとも気付かずに。
冒頭の段階ではまだ僕は、
「こういう話しが展開しそうだな」みたいな先読みをします。
芋を食べて、比較をして、それぞれの美味しさを書くんだな、とか。
ところがさだお先生のエッセイで中盤を過ぎた頃になってくると、
自分が先読みしていていたことは簡単に飛び越えて、
想像もしてなかった舞台になっています。
“さつま芋君は、ホクホク性が身上だ。
こういう生徒は進路指導が楽だ。
先生としては、
『ホクホク性に進路をとれ』と指導していきたいと考えている”
ここでホクホク性がヒッチコックの『北北西に進路を取れ』と
重ねられるところに、
さだお先生に口出ししようとした自分が恥ずかしくなる。
PTAは黙って先生に一任しよう、という気持ちになります。
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