2013年3月31日日曜日

ふるさと観光

高橋秀実の『からくり民主主義』を読んでます。
この人の本を読むのは、
1年ぐらい前に『はい、泳げません』で
作者の気持ちに激しく共感した以来です。

秀実は、泳げない人の気持ちを細部まで言葉にした。
溺れたり息継ぎができない状況の描写は
かなりリアリティーがあった。
成人以降に泳ぎの練習をはじめた僕にはよく分かる。

ともかく、今回も共感する章がありました。
「第3章 忘れがたきふるさと」です。
人は〈ふるさと〉を一つの視点でしか見ていない、
と秀実は言っている。
つまりこういうことです。

豊かな自然。
あたたかい人情。
古くからの言い伝え。

〈ふるさと〉と聞けばそんなイメージを
勝手に抱いているのではないか、と。
〈ふるさと〉はほんとうのところ、
観光地化した場所のことをそう呼んでいるのであって、
自然や人情、言い伝えなんて幻想なのかもしれないのだ。

白川郷の住人に秀実がインタビューする。
「こっちは忙しく仕事してんのに、
いちいち話しかけてくるんです。
いい加減にしろ、と言いたい。
田舎者だと思ってバカにしてますよね」
(合掌造りの家に住む水道屋)

秀実が町の感想を述べる。
「町内には「話しかけないでください」という
張り紙まであった。
東京からアクセスが悪い白川村は、
観光客のほとんどが関西方面。
方言丸出しで、私からすると観光客のほうが田舎者である」

〈ふるさと〉と呼ばれるような場所は、
住人もふるさと表現に勤めなければいけない。
エアコンは木目に塗って見えないところに隠す。
洗濯物は通りから見えないように裏に干す。

住人は観光客が落としていく稼ぎと引き換えに、
普通の生活ができなくなる。
家の中を汚いままにしていてはいけない。
〈ふるさと〉的生活は、観光客が見物のために
勝手に家の中に入ってくるから。

上の引用はただ面白かったということで、
僕が思ったのはこういうことでした。
〈旅行〉と〈観光〉をごちゃ混ぜにすることがあるな、と。

〈ふるさと〉を巡ることを旅と呼んでいいのか。
旅はどこに行っても旅になる。
でも、〈ふるさと〉に行くかぎりその人にとっては観光にしかならない。

あ、でも観光自体がそういう意味なのか?
観測点を決めてスポットライトを当てることか。
観光はそういう意味だと思う。
白川郷は当時のまま?の現物をとどめて、
住人はその生活を再現している。
観光客は当時の文化を学ぶことができる。
できるのか?
イライラ気味の住人がいる場所を訪ねて。
それは当時の文化を知るよりも、
エアコンをカモフラージュする今の文化を知ることになる。
見つけることができれば。
そうすると、観光から旅にレベルアップしそうだ。

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