今日かぎりでこの家を出て行ったほうがいいとおれは思う。
申し訳ないけどきみの子供たちは川で処分させてもらった。
もうこの家に残る理由もないはずだ」
そう言って宮本さんは朝出勤して行きました。
家の窓という窓、
そして玄関扉が閉まらないようにスニーカーを挟んだ。
宮本さんがネズミを説得するために放った肉声です。
米と大豆を作る農家にとってネズミとの縁は深いです。
それはネコとネズミの戦いよりも長い歴史をもつ、
太古の社会から続いてきた戦いです。
やられてはやり返し、やり返されてはやってやる。
宮本さんのネズミに対するアンテナは敏感で、
夜寝ているときにでもネズミの微かな足音に気付く。
人が起こそうが電話がかかろうが起きないけど、
ネズミの足音には目が覚める。
「だけど」
と宮本さんは言います。
「気付いたことに気付かれないで」
というのは、まず把握しなければならないことは、
ネズミの通り道だそうです。
ネズミの通り道さえ押さえればこっちのものだ、
と言う宮本さんはこれまで二〇数匹の身柄を押さえてきました。
正真正銘のネズミハンターです。
その通り道を確認した翌日にすぐ粘着トラップを設置する。
このやり方でほとんどしくじったことはないと宮本さんは豪語する。
粘着トラップを仕掛けた翌日にはネズミが引っかかっている。
だけど結果をすぐに求めてはいけない。
その後三日以内に仲間が様子を見にやってくる。
それも一緒に捕まえると言います。
一つの粘着トラップで三匹が宮本さんのアベレージです。
しかし、一匹だけどうしても居所が掴めなかったのがいた。
夜に耳を凝らしてトラップを設置してもかからず、
天井裏、押入れ、風呂場、あらゆる場所を探しても分からなかった。
ある日宮本さんはタンスに服を仕舞っていたとき、
はっと閃きタンスを傾けた。
そこに見たものは和室の畳に穴が開き、
プラスチックなどのゴミが集められたネズミの巣でした。
宮本さんがタンスを傾けると、
顔の横を弾丸のようにすっ飛んでいくものがあった。
大ジャンプをしたネズミでした。
その日、その巣で見つけた子らは川へ、親はいずこへ。
——もうこの家に残る理由もないはずだ——
と言って仕事に出て行った宮本さんは、
陽暮れ前の夕方に帰りました。
窓も扉も隙間は開いたままです。
異変がないか家を見渡すと、黒いシルエットを目にしました。家のガラスは磨りガラスになっていて、
外から農作業用の鍬が立てかけられている。
中から見るとその鍬の棒と刃がシルエットで見える。
しかここの日見えたのはその鍬の刃の上に、
ネズミのシルエットがあった。
なだらかな心電図のような長い尻尾と、
体格の良いネズミが映っていました。
その後ネズミの姿はふっと消えてそれ以来戻らなかったそうです。
「彼はそうやって自分の姿を見せてくれた。
そう、説得に応じてくれたと思う」
と宮本さんは遠くを見つめたまま、しみじみ語り終えました。
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